手始めに

昨日観に行った『アララトの聖母』について。監督はアトム・エゴヤン。『エキゾチカ』『スウィートヒアアフター』はけっこう好きだったが、今回はどうか。素晴らしい。トルコ人によるアルメニア人の虐殺をめぐる話には正直言って縁遠いものを感じてなじめなかったが、素晴らしいのはその語り口である。デビット・クローネンバーグの『スパイダー』を彷彿とさせるような複雑な語り口は、一見混乱を招きそうな手口であるにもかかわらず、ある人物視点から次の視点へ、あるいは現在から過去へという移行がいつの間にか自然になされるのだ。そして、人物や時間を媒介することによって、ある種のリアリティーが生じている。

主人公の青年は死んだ父がテロリストだったことに疑問を抱き、その闇を常に問うている。彼の彼女は義理の妹であり、彼女は青年の母を心底憎んでいる。この設定だけでも複雑なのだが、そこに画家アシール・ゴーキーの絵が絡んできたり、アルメニア人の虐殺を描いた映画を作ろうとしてカナダに渡ってきた男、あるいはその男とフィルムの持ち出しをめぐって心理的な交信をする税関の老人、そしてその老人の家族なども絡んできたりする。とにかく複雑だ。なぜこれほど複雑なのか。

おそらく作り手は物語のリアリティを突き詰めているのだ。あの忌まわしいテロがあった後、イメージの暴力は世界中を覆い尽くしている。あのテロにまつわる物語、メディアの描く物語、アメリカ政府が愚直に演じる物語、そしてハリウッドの物語…すべてが同じ語り口で語られた。先日、東京デザイナーズブロックで講演したジャン・ボードリヤール氏が言ったように、イメージの暴力、すなわち氾濫するイメージの中、われわれはどうやって特異性や唯一性、それをアウラと呼んでもよいと思うが、いかにして回復できようか。その問いを受け止めたのが『アララトの聖母』であるように思う。この映画の語り口、あるいは語りの媒介。アルメニア人の虐殺という繊細な歴史をどのようにリアルに再現するか。それへの方法論として、アトム・エゴヤンは映画の文法に切り込んだのだ。まさにクローネンバーグの『スパイダー』も同じ文脈で評価できよう。カナダの作家たち。マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』がカナダ人たちの意識調査をおかしげにやっていたのを思い出した。