『サザエさん』と『水戸黄門』

はてなダイアリーでもちらほら感想を見かける阿部和重の『シンセミア』だが、ぼくもつい先日下巻を読み終えたところである。「小説トリッパー」でたまに連載を流し読みしていたときはそんなに興味がなかったが、一度読み始めると止まらない面白さがあった。特に阿部和重の語り口のうまさはさすがである。群像劇的に様々な人物に焦点を移行させながら物語は加速する。ときおり映画の脚本のように描いた密室会話劇を展開させたり、長いモノローグや(ホームページの)日記を挿入したりもして、サービス満載である。
ところで、この小説の中で気になったのは『サザエさん』と『水戸黄門』である。なぜか実際のTV番組として登場するこの2タイトルは両者共に国民的長寿番組であり、疑いのない日常性を代表している。物語の中で突如訪れる非日常的な大惨事に遭遇した田宮博徳にとって『サザエさん』は「気を紛らわすには打って付けの番組」となる。その後、ホテルの寝室では『サザエさん』さながらの夫婦劇が繰り広げられるが、そこは本心の吐露ではなく嘘で塗り固められた腹の探り合いであった。一方、『水戸黄門』をバックに正義感を発揮する警察官=中山正が懲らしめた相手は何の罪もない男であった。
サザエさん』『水戸黄門』と神町で起こる現実との間には、滑稽な差異があり、その差異の滑稽さこそ『シンセミア』の基調音となっているだろう。そういった差異は、ビデオサークル集団の撮影したビデオテープと撮影対象の現実との間などにも生じていて、日常性→異常性/異常性→日常性の往復も絶え間なく行われるが、その移行はかりそめの移行に他ならない。なぜなら『サザエさん*1も『水戸黄門*2も1969年に放映が開始されており、まさに『シンセミア』冒頭で述べられた、アメリカ農務省のプロパガンダ映画の制作時期と符合するからだ。そういうわけで、すべてがアメリカの小麦政策へと収斂してゆく構成は巧妙に過ぎるほどだ。
アメリカの影はいかに根深いことか。それを嘆いても仕方がない。『シンセミア』の登場人物はそんな影を自覚することなく、自警団や超常集団まで組織して町内で吹き上がっているのだから、アメリカだけでなく神町の外すら意識にないのだ。ビデオサークルは町の顔見知りの盗撮映像だけで十分発奮できるのである。
村上龍の『愛と幻想のファシズム』のラストでは、ゼロが「愛と幻想のファシズム」というタイトルのビデオを見てそれをけなし、中南米のゲリラのフィルムを褒め称えるくだりがある。そしてこう続ける。

あれだったんだ、ああいうフィルムほど人を勇気づけるものはないよね、彼らは無邪気で、真剣で、途上にあて、若くて、しかも現実にはすでに権力を握ってるんだ、スピードの頂点にいるわけさ、ボク達を撮ったものはどうなのかな、他のニュースフィルムなんかは案外いいかも知れないね、この作品はだめだけどね

村上龍はあとがきで、ある種の「閉塞感」を書きたかったと述べている。その「閉塞感」に対抗するようなものとして最後のくだりがささやかに示されていた。一方『シンセミア』に「閉塞感」はあるだろうか?アメリカの影から逃れられていない神町が「閉塞感」と無縁なわけがない。洪水後は自警団まで組織されるのだから。しかし、物語を登場人物の視点で読んでいたら、たとえ「閉鎖感」があるにしてもそれは田宮博徳のように自意識の問題として描かれる。そして、それを補完するもの…盗撮、コカイン、ペドフィルたち。そういった補完物はかりそめの補完としか機能し得ず、依存度を強めていく分、死や破滅をもってしか抜けられないアメリカ製無間地獄へと身を落としてしまうのだった。
いずれにせよ、それらを軽快な語り口で滑稽に描く阿部和重の手腕を褒め称えるべきかもしれないと思う。面白いというのが率直な感想なのだ。

*1:1969年10月5日フジテレビで放映開始。

*2:1969年8月4日TBSで放映開始。