モロゾフのチョコレート

昨日イオン*1に行って買ってきたモロゾフ*2のウィスキーボンボンを頬張りながら、やっぱり実家に帰ってまでも在宅バイトに追われていると、朝からちょっとした出来事に巻き込まれた。
久々に田舎で骨休めしたからなのか、田舎自体が変質してしまったのか、あるいはぼく自身が気づかなかっただけなのか…おそらくそれぞれが部分的に正しいのだが、この3日間はまったく映画における「サバービアもの」のような光景・出来事ばかりに出くわす。あと2〜3時間したら再び東京に出発するつもりなので、今朝の出来事を含めて、ここらで「シンセミア的体験」を総括しておこう。
今朝の出来事はというと、ぼくの叔母---彼女は独身のひとり暮しで、2匹の飼い猫と多くの野良猫に囲まれる猫おばさんである---が近所の猫嫌いのおばさんから嫌がらせを受けていて重度のノイローゼにかかっていたのだが、ぼくが帰省するのを前後して鬱病の様相が加速し、周囲の人間もどうしたものか悩んでいて、それに追い討ちをかけるかのごとく、その猫嫌いおばさんが野良猫の糞をぼくの叔母の家の玄関前に嫌がらせで置いていたのである。精神的にもおかしくなりかけていたので、ぼくは昔からおばさんに世話になっているし、仕方なくその猫嫌いのおばさんに朝から電話をかけた。
甥だということを名乗り、野良猫の糞を他人の敷地に置くのをやめるよう穏やかに伝えると、聞いていたのと違って、相手のおばさんは感情的に激昂するような人ではなくて、最初は否定していたけどすぐに認めた。どうやらぼくの叔母にも非があるようで、あらゆる野良猫に餌を無差別にやるもんだから、素行の悪い猫もいて近所に迷惑をかけているのである。もちろん、野良猫の責任をすべて取ることなどしなくていいと思うし、猫嫌いおばさんの被害妄想も多少はあるだろう。
しかし、結局の原因はちょっとしたコミュニケーションの欠如であり、周囲への不透明感なのだ。おそらく、世間の尺度から見ると、病気の母の面倒を見ながら結婚もしていない叔母は「よくわからない存在」であり、例えば、引きこもりの人への世間の不信とよく似た構図が見え隠れしていると思う。そこで叔母がどうするかというと、近所付合いという社交の場から、ギャルゲーオタクが二次元美少女へと退却するように、猫たちとの戯れへと退却したのだった。
そして、件の猫嫌いおばさんとの電話でぼくが感じたのは、当事者同士の合意可能性の低さだった。双方ともにコミュニケーション不足による不信感を抱いているゆえに、お互いが交渉をもたない限り、ぼくのような第三者が入っても解決はないように感じられた。そこにあるのは怯えとその裏返しとしての怒りの無限ループであって、果てしないディスコミュニケーションの加速はまさにシンセミア的、あるいはサバービア的な物語のような帰結を生むかもしれない。
一見別の話に思えるかもしれないが、ここ数年流行っているTVの法律ものというのは、不透明感への心理的カタルシスとして機能しているのではないだろうか。それを考えたのは、先ほどの不毛な電話において、ぼくの頭に「訴えますよ」という言葉がよぎったからだ。もはや有効な解決策が望めない状況において、あんな陳腐な言葉になぜ誘惑されるのだろう?大澤真幸言うところの「第三者の審級」として、もはや法律、それもキッチュなTV番組のフレーズに頼ってしまいたいとは…もしかしたらこういう事態が人文科学的な知の衰えなのだろうか…。
逆の方向に目を向けてみよう。すると先日の美容師おばさんの姿が思い出される。あの占い師的なカリスマ性。サロン的空間。そして統一感のない多様な人々の集い。例えば『シンセミア』で言えば、盗撮サークルと化したビデオ制作集団や預言者的な爺さん率いる発掘グループ。田舎に浸透するのはそういった両極化であり、こんなところで生活するよりも、東京で広く浅いリアル人間関係と、夜な夜な浸かるネットを媒介した人間関係に生きる方が余程健全ではないだろうか。いや、それぞれの健全さを比べること自体が何かを見落としているような気にさせる。
しかし、ぼくが体験したのは田舎のほんの一面であり、今回は昔の友人とかに会う暇もなかったので、まだまだ足元に未知の世界がころがっていたのかもしれない。要するに、場所と場所を往還することで見えてくる主題というものはたぶん存在していて、それがぼくの目にも見えるようになったのだろう。街の往還というベケット的主題。ぼくは亡霊にでもなるべきかもしれない。

*1:郊外に展開している超大型デパート。

*2:1926年、外国人を広く受け入れていた神戸において、白ロシア系であるフェドル・ディ・モロゾフと息子バレンタインによってコスモポリタン製菓が作られ、モロゾフのチョコレートは日本におけるチョコレート史を誕生させたと言われる。