ぼくは新聞を読まない…が

大学1年目には朝日と読売をとっていて、社会参加するぞという意志がみなぎっていたけれど、1ヶ月後にはすでに空回りしていて、月々の集金がぼくの生活を圧迫し始めていた。ぼくが上京後、最初にやったアルバイトを運良く朝日新聞社だったので、新聞はほぼ全紙読み放題になった。
振り返れば高校まで読んでいたのといえば、地元の新聞と朝日のスポーツ欄、テレビ欄、読書欄、コラムぐらいだろうか。読者投稿みたいなのはやったことがあって、1度朝日新聞に掲載されて3000円ほどの謝礼を貰ったことがあるのだけど、その時の経過に不信感を抱いた。
ある日の電話は朝日新聞社からのもので、あなたの投稿を掲載しようと思うのだが、一部の表現を別の表現に換えてもいいかという趣旨だった。ぼくが投稿したのは、「高校と予備校における勉強のあり方に関するもので、受動的な勉強と自発的な勉強を比較して、その動機付けに関する拙い提言をする」といったものだった。そして、掲載された記事を読んだ。すると、横文字が極力排除され(確か「カテゴリー」→「分野」とかになっていた)、批判的に書いた部分がかなり薄められた表現になっていた。添削とかなら分かるのだが、なんでこんな書き換えをするのだろうと思った。
そんなこともあってか、ぼくはあまり新聞を読まない人間になってしまった*1
まあ、そんなのはどうでもいい前置きで、2月15日の日経夕刊を読んでいたら面白い記事があった*2。「中食」についての記事と「ネット口コミ」についての記事だ*3。前者は否定的に、後者は肯定的なニュアンスで書かれたものだが、先日のぼくの日記*4で書いた「中間層」にかかわってくるものである。
「中食」はデパ地下なんかで流行っている惣菜をメインにした食事形態のことで、手軽でしかも最近は一流シェフの手がける高級惣菜などもあったりして、孤独な食事のみならず家庭の食卓さえ支えている。しかし、日経の記事にもあるように「"昼食難民"の救世主」の側面として「中食」の頭角は現れている。
「お昼に外食する時間がもったいない」けれど「コンビニのパンや弁当じゃ物足りない」というわけだ。さらに夜は駅の「中食」という傾向も見られるようだ。なんかまさに『AERA』が「病理」として取り上げそうな(すでに取り上げたことがあるかも)記事だ。
ぼくがやっているホテルのバイトは、ほぼ昼夜二交替制に近いので、忙しいときはトイレや食事の時間さえまともにない。夜のチェックイン客が多い時間帯に食事(まさに「中食」が提供されている!)をしてようものなら、次々と客が押し寄せてきて、口の中にある固形物を飲み物ですべて流し込まねばならない。トイレに入っている時だって、いつ客が来るか警戒していなければならない。もうひとりバイトがいれば、こんな問題は片づくはずなのに…。
雇い手がインセンティブとして与える「責任」を内面化したぼくたちは、そんな悪条件に対して異議を申し立てるよりも、むしろ忠実に、いやそれ以上に良い働きをしようと必死になる。できない奴らは首を切られたり文句を言われたりしていて、そういった差別化さえも、ぼくたちを「自分はオッケー」みたいな優越感に浸らせるギミックでしかないように思える。
「中食」の浸透は、仲間同士がわいわいしながら飲食する施設を減らし、個々を分断する傾向をますます加速させるだろう。コミュニケーションする場としての食は失効し、エネルギーの充填という昨日だけの食が浮かび上がる。だからこそ「中食」においては、「味」や「食材」や「価格」という面が付加価値として重視され、「食におけるコミュニケーション」という側面は最初からなかったように無視され続けるのである。
ぼくが思うに、チェーン展開の居酒屋とカフェの増殖はそれに関係していると思う。コミュニケーションの場の希求として。だから、新宿東口から歌舞伎町にかけての多くの居酒屋のように、狭くて暗い店内に閉じこめられ、5倍くらいに薄められたサワーやカクテルしか出てこない所や、「安さ」を重視して狭苦しい場所に客を押し込める回転率至上主義のカフェは、ぼくたちの希求に対してさらなる家畜システムを押しつけようとするものであり、個人的には早く滅びることを願っているが、実際にはそういった悪徳はマーケティングの名の下に、ぼくらを搾取する努力を惜しまないのである。
「ネット口コミ」の方は、そういった悲観的な状況に差す明るい兆しとして捉えられる。「アフィリエイター」と言われ、自らのホームページで、契約した企業の商品を紹介して副収入を得る人々が増えている。これは消費者による消費システムのチェックとして機能していて、同人誌などの二次創作に似た消費−生産形態のビジョンではないだろうか。
ネット上での売買の浸透度はすでにかなりのもので、この記事で紹介されているように、会社として月収100万円以上稼ぐカリスマだっている。ボトムアップでなされる口コミは、刺激としてイメージや無意識に注ぎ込もうとする広告がぼくたちを動物=家畜としてしか扱っていないのに対して、コミュニケーションを媒介させようとしていて好感がもてるのである。
しかし、問題はいろいろあるだろうし、今後悪い方向に行かないとも限らない。それでもコミケにおけるサークルのブースと企業のブースを差のようなものはあるだろう。「中間層」のキツさを克服するためにどのような実践が可能か、ぼくは考えていかなければならないと思う。苦しい今だからこそ、実践的な思考が可能なのだ。

*1:朝日でバイトしていた時は、よく文化人が言っているように、それぞれの新聞の記事を比較しながら読み解くということをやっていたこともあったが、長続きしなかった。

*2:ホテルのバイトでロビーに置いてあるやつを拝借して読む。たまに持って帰る。

*3:そういえば、最近の、日経か読売か忘れたけど、深夜アニメについての記事があった。『マリみて』現象もとりあげられていて、斎藤環が一言コメントしていた。まったく別の話だけど、東京新聞にはオタク関係の記事がなぜ多いのだろう。ぼくの気のせい?

*4:リファして下さったid:umikazeさん、id:bakuhatugoroさんは、それぞれ興味深い考察を展開していて、たいへん参考になった。