芽衣子姐さん、再び

tido2004-03-27

新文芸座オールナイト「梶芽衣子、再び」に行ってきた。ラインナップは以下の通り。
野良猫ロック マシン・アニマル(監督:長谷部安春/1970)
・女囚さそり 701号怨み節(監督:長谷部安春/1973)
ジーンズブルース(監督:中島貞夫/1974)
曽根崎心中(監督:増村保造/1978)
素晴らしい夜だった。もの悲しく、胸が締め付けられる後味を残して朝を迎える。

野良猫ロック マシン・アニマル』は同シリーズ『セックスハンター』同様に長谷部安春監督作品。出来の方はそんなに良いとは思えない。安っぽいメインストーリーがあり、テンポの良いカット割りで、あっという間の80分だ。執拗なゴーゴークラブの描写、挿入される唄の数々(梶芽衣子の唄あり)で豪華に見せようという雰囲気は伝わるのだが…『セックスハンター』が大和屋竺脚本だったことを考えると、脚本の質に大きく作用されているのかもしれない。
しかし、逆にその安っぽさを見つめてみると、かなりしたたかな姿勢がうかがえる。藤竜也らがひとりのベトナム脱走兵を海外に逃がそうとしている、それに梶芽衣子ら野良猫女軍団が手助けする、しかし、仲間だと思っていた男たちの軍団に邪魔される、というのがとりあえずのメインストーリーだ。で、その中のベトナム脱走兵というのを演じているのはどう見ても日本人なのだ。しかも、喋っている英語は発音にしたって和製英語とそれほど変わらない。一応、キャストを見るとやはり日本人で山野俊也という俳優だった。
なぜその俳優をベトナム脱走兵などにキャスティングしたのか?どう見ても日本人で、役名の「チャーリー」にしたって安易な感じは否めない。結局、彼は船に乗ることができずセキュリティ・ポリスの銃弾に倒れるのだが、その場面の安っぽさの徹底ぶりも注目に値する。女たちと楽しげに歩くチャーリーの前にセキュリティ・ポリスの車が急停車し、中から2人の外国人警官が現れ一言"Are you Charlie?"である。逃亡したチャーリーは後ろから撃たれ、梶芽衣子らの前で連行されてしまうのだった。
あるいはその前の場面で、チャーリーが敵の一味にさらわれてしまうというエピソードがある。梶芽衣子らはチャーリー奪還のために街中をチェイスする。その時の乗り物はなんとミニバイクなのだ。女5人がミニバイクで街中を縦横無尽に駆けめぐる姿。狭い路地だけでなく、てんぷら屋やパチンコ店*1や他人の家みたいな所まで突き抜けて行く。
遊び心たっぷりなそんなシーンの数々とは裏腹に、藤竜也ら逃亡者たちは、しきりに日本から出ていきたいと口にする。女たちのリーダー梶芽衣子はそれに共感する。「出ていける奴は、こんなところ出ていった方がいいよ」考えてみると、彼ら彼女らはゴーゴークラブかガラクタだらけのアジトを拠点としていて、ほとんど同時代の街を舞台としない。映画を観ていて、その風景の単調さに飽き飽きしてしまうほどだ。けれども、件のチェイスシーンで描かれた街中の風景は、高度経済成長の日本をそれこそ安っぽく反映しているのか、野良猫女軍団が「異化」してみなければ観られたもんじゃないだろう。そんな「日本」から出ていきたい、居場所なんかない、という感覚はぼくでも想像可能だ。
ストーリー(脚本?)のひどさをかろうじて救っているのは、そういった風景への批評的な描き方かもしれない。なんせ、ゴーゴークラブの場面は豪華な踊りと歌唱シーンが加わって、濃密な空間となっているのだから、明らかな意識がその描き分けに働いていると思って間違いないだろう。劇中で何度も逃亡者たちによって奏でられる妙な楽器の調子外れの音色のように、ぼくも調子を外してしまうような映画だった。助監督は田中登

  • 『女囚さそり 701号怨み節』

前回の「梶芽衣子特集」で観た伊藤俊也監督の『女囚701号 さそり』に続いて、ぼくがこのシリーズを観るのは2回目。あまり好きじゃないかもしれない。
『女囚さそり 701号怨み節』は何と言っても、梶芽衣子の台詞が極限値ほどに少ない。しかし、逆に言えば、梶芽衣子の魅力が台詞的なものからほど遠い地平にあるということを証明している。とにかくどんな状況でも抵抗の眼差しを示し続けるその姿は「冥府魔道」の域である。そうは言っても、今回、相手役となる田村正和に一度は惚れてしまうわけであり、ラストに日和った自分自身を断ち切るために男を刺し殺しはするものの、女囚さそりは女であるということを露呈させているのである。黒いコートと黒い帽子に身を包んで佇む姿からはそんな揺れは感じさせないが、男への揺れを断ち切れないのは、女囚さそりにとっての最初の悲劇となるエピソードからの因縁=業なのかもしれない。
一方、田村正和の方であるが、学生運動崩れ、現在ストリップ小屋での照明アルバイトとして死んだように生きている彼は、かつて公安から理不尽な拷問を受けていて(そのシーンは何度も何度もフラッシュバックされる)、日和ってしまった過去を封印している。そこで突然、さそり=梶芽衣子との出会い。さそりを愛し、過去の闘争を復活させようとする男。だが、結局は再び日和ってしまうことになるのだった。さそりを裏切って。拷問に耐え抜いた男を今回打ち負かせたのは、警察によって仕組まれた母親の登場だった。やはり「家」の因縁を断ち切らねば革命家になんぞなれやしない。寺山修司的なモチーフだ。
運動崩れと共にインポになっている男がストリップ小屋で働いていて、そこに現れた美しい女脱走囚に惚れて、闘争を再開すると共に性的能力も回復させるというのは、図式的すぎて『女囚さそり』シリーズらしい。せっかくだから観てない作品も一度チェックしておきたいと思う。

  • ジーンズブルース』

どうしてここまで彼と彼女は追いつめられなければならなかったのか?東映渡瀬恒彦中島貞夫(それに室田日出男に川谷拓三!)ときたら…という想像をここまで裏切られるとは思わなかった。それに加えて、やはり梶芽衣子という女優は計り知れない。『ジーンズブルース』というタイトルなど吹き飛んでしまう。
どこにも居場所のない梶芽衣子はセックスに興じる客たちを置き去りにして、自分の店をふらりと出る。勝手に使った車。一方で、仲間と金のために殺人の片棒をかついだ渡瀬恒彦は、ちょっとしたきっかけで金を盗んで逃亡する。交通事故。梶と渡瀬の出会い。唐突な出会いをきっかけに居場所のない2人はしだいに仲を温めながら旅をするロードムービー。突発的なエピソードの連鎖は、深作映画のテンポで進行していくのだが、例えば終始力業の『暴走パニック 大激突』(これも渡瀬恒彦主演だ)とは違って、何か逃れがたい重さの影が常につきまとっているような印象を受ける。
渡瀬恒彦は逃亡の際に、せっかく奪った金を意図せずに道ばたにばらまいてしまい、その少し後にはちょっとした事故で指を一本失ってしまう。渡瀬の熱演は、突発的な事故のおかしさを超え、限りなく悲愴な痛みを画面に穿つ。コンテナに閉じこめられたまま、田舎町まで運ばれた梶と渡瀬は、そこでボニー&クライドさながらに強盗事件を重ねながら逃亡を続ける。この辺りの演出の軽やかさは『俺たちに明日はない』の空気にもつながるかもしれない。この強盗に使われるのは、とある湖畔で狩りに耽っている男から奪った猟銃なのだが、その際に男を撃ち殺したときの描写も執拗なまでに凄惨だ。
その後も闘争の道具としての銃は躊躇なく2人によって使われることとなる。あるアジトでの出来事では、射撃練習をする渡瀬のところに梶がやってきて「これを撃ってみて」と、額に入った「日の丸」を的に据え、それを渡瀬が打ち抜くというものまであった。一方で、彼らはニワトリを追っかけるという原始的な生活の中で、心身ともに愛し合うようになるのだった。
しかし、画面を覆う色調はいつまでも暗い。その予感は結末へとつながってゆく。ところで、渡瀬が最初に仲間の金を奪ったのにはわけがあった。田舎の妹に金の工面を頼まれていたのだ。梶を愛するようになった渡瀬は、最後に妹に金を届けてから2人の旅を続けようと決心していた。そして、ボニー&クライドさながらの強盗で稼いだ金を妹に届けようとする。だが、妹が(浪花節の手紙で)頼んだ金は男に貢ぐためのものだったと、先回りしていた追っ手たちによって発覚する。それを知らずに妹を山小屋に呼び出して金を渡そうとする渡瀬。待ち受けていた追っ手たち。真相を告げられる渡瀬。脳天を棒で強打された渡瀬はもがき苦しみ、さらに追い打ちで川谷のドスで背中を深く刺される。山で待つように言われていたが、気配を察知し駆けつけた梶は川谷を猟銃で撃ち、金を奪おうとした追っ手の中の女も撃ち殺す。他の2人は逃げる。瀕死の渡瀬を介抱する妹と梶。やがて駆けつける警官隊。
これは…連合赤軍による「あさま山荘事件」の反復!『ジーンズブルース』は1974年の映画だから明らかだろう。山小屋の中になぜか生活感があって、外の殺風景な景色の中に圧倒的な警官隊が銃を構えている様の差異。痛みの苦しみゆえに「殺してくれ」という渡瀬を大きな目で直視しつつ、そのまま猟銃を取ってきて、心臓の位置にぴったり銃口をあて撃つ梶芽衣子。人殺しと罵る渡瀬の妹に対して「出ていって」と一言。孤独な闘争にためらうこともなく、猟銃で1人、2人、3人と警官を撃ち殺す。しかし、怯えながらも放たれた警官による一発の銃弾が梶芽衣子の額を撃ち抜くのだった。
野良猫ロック マシン・アニマル』における、梶芽衣子が凝視したチャーリーが撃たれる場面。『女囚さそり 701号怨み節』における、自分自身の手によって愛した男をナイフで突き刺す場面。そして『ジーンズブルース』では、愛する男にとどめをさし、警官の銃によって頭を撃ち抜かれてしまうのだった。これほどまでに死を直視せねばならない女なのだ、梶芽衣子とは。この映画の後に観る『曽根崎心中』でもぼくの期待は裏切られない。見事なまでに死を直視するだろう。

増村保造監督・脚本。言わずと知れた心中物の古典。スピードとエロスの増村演出が、梶芽衣子のお初と宇崎竜童の徳兵衛をどう料理したか。凄まじい70年代映画になっていると言わざるをえない。1978年。
ストーリーは言ってしまえば、ベタベタな男女の心中話だ。もちろんそんなことは分かった上で、冒頭から心中に向かうお初と徳兵衛の姿が映し出される。暗闇の中をもくもくと歩きながら言葉を交わす2人の尋常ならざる様子。そして、時代劇に似つかわしくない不思議な音楽が妙な味わいである。すぐに場面切り替わり、女郎お初のところに徳兵衛が入り浸っていることを、お初に対して口うるさく言う女郎屋の主人夫妻の場面が続く。お座敷に上がったお初は徳兵衛との別れを身が張り裂けそうになりながら惜しみ、徳兵衛もお初に答えながら、名残惜しげに別れる。
しかし、女郎の梶芽衣子の美しさと言ったらない。この作品では一度も笑顔を見せることなく、見開いた眼で情感たっぷりに想いを訴え、他の作品の寡黙さとうってかわって、言葉の洪水を繰り出す。あえてそうであろう陳腐な言葉の多弁さと、抑制された表情・動作とのずれが、現実に身を置くことの困難さを捨て、心中して極楽にて愛する人との一体感を求めようとする胎動を感じさせる。
宇崎竜童の演じる徳兵衛の方が表情や動作に多様さがあって、それゆえに思い切りの悪さに通じてしまっている感じがうまく出ている。つまり、お初と徳兵衛の愛が成就しない現実において、どちらかというと徳兵衛の方がうまく適応できているのだ。物語は徳兵衛の現実における適応を崩すエピソードが重なることで、彼の居場所がなくなってしまい、お初がすでにいる「死」の場所へと加速させるのである。お初=梶芽衣子はその表情や動作が示唆する通り、すでに「死」の場所で徳兵衛を待っているのだった。
それにしても、執拗なまでの暴力*2描写!この映画では、殴ったり、蹴ったり、暴力描写がかなり多いのだが、すべてが激しく、徹底的に行われている。また、物語の性格ゆえにか、悪い奴は徹底的にその俗悪さを描かれ、より一層心中を望む者たちの悲壮感を際立たせる。
友と思っていた人間に裏切られ、徹底した暴力を人前で受けてしまう徳兵衛の無念に感染したお初が、涙を流しながら徳兵衛の実直さを訴え、裏切り者の非を訴え、挙げ句に「殺せるなら殺してください!」と迫る辺りは、その場面だけ切り取っても迫力がある。その時、徳兵衛は事情があってお初の足元に隠れていて、お初の言いっぷりに感動して美しい脚に頬ずりしている。女郎という身分で商人の徳兵衛を愛するお初は、当初追いかける、あるいは待つという立場にいたが、この場面を経て、徳兵衛こそがお初を追いかける形になるのだ。
2人が心中に出発した直後、すべての誤解が解け、また2人の想いの深さを知ったみんながすべてを認めようと決めるという皮肉が悲劇性を高めつつも、2人の心中は達成されようとしていた。木に身体をくくりつけた2人。
お初は徳兵衛に自分を刀で突き殺すように求めるが、徳兵衛は愛した身体を傷つけることをためらい、ようやく刀を振りかざすが、見当はずれに肩口を突いてしまい、お初を苦しめてしまう。「苦しめないで…」とそのままの表情でうめくお初の喉笛に意を決した徳兵衛が刀を突き刺す。かすれつつある声で「うれしい…うれしい…」と言いながら死んでいく梶芽衣子が美しくないはずがない。お初の剃刀を自らの首に当てて血塗れになりながら死んでいく徳兵衛は、お初の手を取って、そのまま固まる。夜が明け、朝日が昇る。血だらけで仏のように固まった2人を様々な角度からカメラが捉え、もうそれは抜け殻となっていて、ぼくたちが想像するしかない域に2人が向かってしまったことを暗示させる。2人が死んだ後の「長さ」が絶妙だった。
野良猫ロック マシン・アニマル』における、梶芽衣子が凝視したチャーリーが撃たれる場面。『女囚さそり 701号怨み節』における、自分自身の手によって愛した男をナイフで突き刺す場面。『ジーンズブルース』における、愛する男にとどめをさし、警官の銃弾に倒れる場面。そして『曽根崎心中』では、愛する男と心中するため、男の刀で血塗れになりながら喉笛を突き刺され果てる場面へ…梶芽衣子。それは死を直視する女なのだ。

*1:当時のパチンコはみんな立ったままやっていた。勝新の『悪名』シリーズのどれかにもパチンコの描写が出てくるのがあった。

*2:最初は「せっかん」と書いていたけど、どうやらぼくが「せっかん」という言葉の意味を少し誤解していたようなので訂正。