『アカギ』アニメ化決定!

tido2005-05-25

近代麻雀」の増刊号『天・アカギ』には少ないが福本伸行へのインタビューまである。

福本 天才の一言に尽きるでしょうね。漫画の主人公として、天才であるというのは珍しくないけれど、その天才の内面にまで踏み込んで描かれている作品は多くない。『アカギ』は天才の精神、思考、「あ、天才ってこういうふうに思考して、実践するんだ」っていう部分を描きたいと。そう思ってやってきましたから。
―麻雀というツールが、天才の精神を描くのに適していた。
福本 相性はバッチリだと思いますね。麻雀もロジックを積み重ねていくもの。僕の漫画も同じように積み重ねですから、そういう意味で適していると言えるでしょうね。
(略)
福本 それから、麻雀のもうひとつの特性、ギャンブルという部分もありますよね。ギャンブルに対しては、凡人はただ右往左往するだけなんですよ。この悪魔のような存在に対したとき、天才がいかに闘うのか、というところに読者は興味をもつんじゃないかな。
(略)
―まさに人生の縮図ですね。
福本 僕も自分でギャンブルをやっていて、自分で「もう引かなきゃならないのに、なんで俺は押しているんだ」って思うことがあります。追い込まれると、人間は正常な判断ができなくなるんだってことを、ギャンブルを通じて痛感しましたね。もう一人の自分が止めているのに、やめられない。
―しかしそれは冷静ですね。普通の人は、終ってから後悔するものでしょう。
福本 もっと冷静なのが赤木です。生きる、死ぬっていうことに対しても、普通の人とは違う感性を持ってますから。この独特の死生観を、うまく演出して表現してもらえれば、アニメ『アカギ』はものすごく面白い作品になると思っているんです。

このインタビューでは、ギャンブルと人間にまつわる本質が簡潔に指摘されている。『金と銀』や『カイジ』シリーズにおいても一貫とした経験則から生みだされた精神である。
ロジックとギャンブル。
福本伸行が麻雀において……と指摘した2つの要素は、彼の漫画の2つの要素でもあり、人生の2つの要素でもあり、あらゆる物事に反映する2つの本質なのだ。合理的な積み重ねが大事なのは言うまでもない。ビジネスであろうが学問であろうが漫画であろうが映画であろうが小説であろうが、これが欠けているとほとんどのものが根本的に破綻する。ぼくのスロットの立ち回りもまずは雑誌に掲載される解析値とフィールドワークによる情報収集と情報分析が基本だった。
そしてギャンブル。ロジックだけではもちろん世の中はやっていけない。科学の世界でさえ、ひとつのパラダイムでは説明できない事態にやがて直面するのだ。スロットでもロジカルな立ち回りが通用しない「流れ」に直面することがたびたびあった。それは確率の偏りなどで説明され、長いスパンで見ると理論値に近づくことが分かっている。だが、理論値とは永遠に繰り返し続ける場合の架空の数値であり、ぼくたちの有限な生は常に偏った確率と戯れるしかない。だったら、結局は確率なんて意味ないじゃん。そう考えたがるビギナーもいる。けれども、ロジック=積み重ねをおろそかにするのは間違っている。そこで「流れ」を「読む」ということが必要とされる。攻め時、引き際を見極めること。ギャンブルの神髄がそこにある。いや、人生の神髄もそこにある。
クレッチマーが言うような「てんかん気質」の天才は、天性の感覚で神憑り的に流れをつかんでしまうようだが、それはいわばロジックとギャンブルという2つの要素が一体となった姿ではないだろうか。無謀な賭けに出ているようで数十手先、数百手先、数千手先まで読むということ。ロジックが音速、光速で駆動するともはやギャンブルになってしまうのではないか。しかし、凡人において両者の間には隔たりがある。天才と呼ばれる人だって、実のところ内的にはロジックとギャンブルに隔たりがあって、外から見たらそれが一体となっているかのように天才的に見えているだけのことかもしれない。
福本伸行の漫画が天才を説得的に描くならば、それは本質的には感情など映し出さない漫画という表現ジャンルのトリックによるところもあるかもしれない。それはアニメで表現する上でも同じである。それゆえに表現力に才能が発揮されるというものだ。しかし、トリックとはいえ、これに福本漫画に学ぶところは大きい。天才の思考は学べなくても、心理を操り天才的に振る舞うことはできる。他を圧倒することはできる。
しがないフリーターとしてぼろぼろの人生を送っているカイジに学べばよい。ギャンブルにおいて才能を発揮する『カイジ』では『アカギ』と違って、弱い心理の露呈も描かれている。『アカギ』は赤木以外の他の面々が彼の天才的打ち筋を解説する形となっている。心理の露呈は癖やちょっとした振る舞いによって行なわれる。天才の速さはそういったものを露呈させない、あるいは相手に読み取らせない。例えば野球でも、フォークボールを投げるときにグローブをもぞもぞさせたりする癖が見破られたりしては、相手に打たれたり見逃されたりしてしまう確率が高まるだろう。これは訓練によって隠すことができる。
考えてみれば、人の心理というのは外面にしか露呈しない。内面を綴った日記などもそうだ。そして、それらがアウトプットである以上、そのままに受け取ることはできない。無意識だったり赤裸々なものであったりすればよいが、意図的に加工されたものだったりしたら、額面通り受け取ると罠にはめられてしまう。外面から相手の心理を読み取るにはそれなりのコードが必要なのだ。さらに、ギャンブルが学びに役立つのは、そのコードの読み取りに必死になれるからである。何かを賭けることで必死になれる。これを『カイジ』の利根川は「真実の会話」と呼んだ。ぼくがスロットを重視したのも、相手が機械である以上、厳密な外面の読み取りでなければならないからである。細い演出やリールのスベリやゲーム数の読み取りに注意し、どのようなコードがあるのか分析すること。それは時にオカルトや陰謀説めいた形になってしまうことさえあるが、それでよい。そういった思考の徹底が世渡りする能力を鍛えてくれる。ビギナーのように不安に耐えきれず、オカルトや陰謀説、あるいは勝手な推測によって結論を早めてしまうことさえ気をつければ。
最後に福本伸行が言ったように、死生観というのも重要な要素だろう。死を覚悟することで、金のかかった勝負で外面的な余裕を見せることが可能になる。訓練の足りないギャンブラーは、大きな負けによってすぐに心理を侵略される。『金と銀』*1の描写を見よ! 何者かに侵されていくようなあの感覚。秀逸な描写だ。これに対するのは強靱な死生観しかない。すなわち死を覚悟すること。
このように考えると、ほとんどの人がパチンコの「海物語」シリーズに浸る日本においては、ロジックとギャンブルという要素はお門違いなのかもしれないが、その実践はぼくたちの生活を緊張感に満ちたものにしてくれるに違いない。そして、耳を澄ませば聞こえてくる。
ざわ… ざわ…

*1:そういえば昨夜のV6がやってるテレビ番組で『金と銀』を読んでいる中学生or高校生が出ていた。