持続的演出と外敵の描き方

原作も映画版オリジナルも確認していないので比較はできないが、他の人の感想など拝見するに、オリジナルにほぼ忠実らしい。
http://d.hatena.ne.jp/eigadojo/20050629
クレーンの仕事を切り上げたトム・クルーズが荒々しく車を駐車した辺りから流れている冒頭の不穏な空気が、割れる窓ガラスなどの細部の積み重ねによって増幅され、地面からトライポッドが出現するまでの安心を許さない演出、そして「攻撃」が始まってからのワンカットの持続感、この辺りを見るだけで近年の侵略&災害系の映画を圧倒しているのは明らかである。群衆パニックのシーンがあれほど長回しで撮られていることが、これまで散々繰り返されたような場面の状況を異質なものに見せる。このシーンにおいては、勢いに任せた混乱がなく、巨大な敵が精確にひとりひとりを狙い撃ちするというのが何より恐ろしい。
また、その後に続くシーンの様々な「対比」の落差がさらに異質さを加速させる。地下室と墜落した飛行機。川岸の叙情的な風景と大量に流れてくる死体、そして軍隊。冒頭で一気に絶望的な状況に落とし込みながらも、展開に起伏をつくっていく演出はさすがにスピルバーグである。そのためローランド・エメリッヒの『デイ・アフター・トゥモロー』とはかなり違った印象を受ける。
いま『デイ・アフター・トゥモロー』を挙げたけど、この『宇宙戦争』を観ていると、近年の侵略&災害系映画の影を網羅的に思い浮かべてしまう。それこそローランド・エメリッヒの『インデペンデンス・デイ』のような圧倒的な攻撃や『デイ・アフター・トゥモロー』の民衆大移動、M・ナイト・シャマランの『サイン』の地下室隠れなど。特に9.11以降の流れはこの映画にも例外なく刻印されている。
ぼくがそれを強く感じるのは「内部からの崩壊」が反復的に描かれていることに対してだ。トライポッドが人類生誕より前に地球に埋め込まれていたということ、そのトライポッドが出現する場面などでのビルの内部崩壊(これは特に9.11のあの映像のトラウマなのではないか?)、群衆内部での暴力、そしてトライポッドにとどめを刺す手榴弾。これらは「内部からの崩壊」をテーマではなく、イメージそのもので見せる。
そんなイメージに対して、スピルバーグが取り憑かれている父子の物語やトム・クルーズの「決断」というドラマが展開されるのであるが、前者はまあ措くとして、後者には強く興味を惹かれた。
トム・クルーズが演じる男とは、冒頭の少ない日常描写や娘と息子の台詞から窺えるように、己の能力に自信をもちつつも身勝手で優柔不断な男である。労働者であり離婚を経験しているという設定も大きくかかわっている。映画の前半で気になるカットがいくつかある。トライポッドが出現する地面の石をトム・クルーズがポケットにしまい込むカットと銃に関するカットだ。この2種のカットが示すのは、後々それらが何らかの形で映画の展開に重要な「きっかけ」を与えるだろうという予兆なのだが、実際にはどちらも物語展開に重要な意味をもたない。しかし、最後まで映画を観てちょっと考えてみるとそれが重要な意味をもつことが伝わってくる。
トム・クルーズは映画の中で2度、直接的な暴力を他人に加えることになる。最初は、息子と娘を群衆から守るため。この時に銃を失う。2度目は、地下室の住人ティム・ロビンスが狂気に取り憑かれた時だが、これは直接的暴力を強く臭わせる意図的な演出による。2度目の暴力の前には、侵略者をライフルで撃とうとするティム・ロビンストム・クルーズが必死に静止する。また、2度目の暴力のすぐ後に、トライポッドの触手に娘が襲われそうになり、斧をつかって触手を叩き切るという描写もあるのだが、これは暴力というより突発的な作業に近い。あの触手はほとんど金属なのだから。何が言いたいかというと、トム・クルーズの演じる男は物語の展開と共に暴力、とりわけ銃を遠ざけていくということである。それは同時に、前半トム・クルーズの顔*1に顕著に見られた恐怖を克服する過程でもあった。
この映画の結末をどう評価するか意見が割れるところだろう。しかし、スピルバーグの演出とトム・クルーズの演技(とそこから読み取れる物語)は自身の持ち味を強く刻印しているのだった。もちろん、ぼくは好きな映画だった。

*1:ラスト サムライ』評で蓮實重彦が指摘した通り、トム・クルーズの受け身の演技、特に顔の表情は注目に値する。