父親の魂の行方

3年ほど前に偶然神楽坂でピンク映画を観ていたら時代劇調の物語が始まり、姫と従者の旅がスクリーンに映し出されていた。やがて姫は山賊にさらわれ陵辱され、従者の前でも陵辱されてしまう。詳細は忘れたけど、自由の身になった姫はラスト、従者の目の前で世界に絶望して自殺してしまう。ちょうど映画『あずみ』もやっていた頃だったせいか、あまりの強度の差に衝撃を受け、同時にこの映画に魅せられた。『にっぽん淫欲伝 姫狩り』という。その監督と脚本をやっていたのが藤原健一だった。
『イズ・エー』は妥協を許さない映画だった。詳細は変更されているが、明らかに少年Aの事件、そしてその後を題材としている。映画的想像力は、事件の4年後、出所した後の少年、その父、そして事件で妻と子を失った刑事を中心的にとらえている。
『イズ・エー』は爆弾事件を犯した脱社会的少年についてかなり距離を置いて描いているように見える。「距離を置く」とはつまり、感情的なアクションをやらせていないということである。しかし、少年の妙に中性的な、あるいは女性的な言動、すべてを諦めたあとに訪れるかのようなひどく寂しい笑顔にある種の「解釈」が込められているとも思う。映画はそんな少年よりもその父と、妻子を失った刑事へと肉薄している。もっとも、少年の友人や、事件を生き延びた売春少女、刑事の同僚なども描かれるが、父と刑事と比べると圧倒的に描写の比重は劣るのでここでは省いておく。
まず、少年の父。事件の4年後。頭を丸めてゴミ処理の仕事をしている父は、妻、娘と別居し、出所した息子のもとに足繁く通っている。内藤剛志が演じる父の佇まいは穏やかではあるが、ある種の覚悟を孕んでいて、息子をまったく理解できないことに無力感は覚えていても、過剰に奮闘しようとはせず、ただひたすら息子を信じることに徹している。
一方、妻子を失った刑事。ただひたすらに自暴自棄。すべての社会的な関係に関心がなくなり、家に帰ると妻の幻影と交流している。新たな事件に出所した少年の影を見て取り、管轄外にもかかわらず過剰な復讐心を燃やす。津田寛治演じるこの刑事も脱社会的になっているが、少年の佇まいとはまったく逆である。少年への復讐心、そして妻子との記憶のみによってこの世に繋がれている存在だ。その意味で少年の父と似る。
この2人はやがて接触する。新たな少年の事件を介して。そして、少年を自らの手によって殺す(決着をつける)という目的で行動は一致する。一方は責任から、一方は復讐心から。しかし、論理を超えたそれらの決意は説明しがたい。少年の爆弾が渋谷のビルを破壊する音を聞いた父が発狂したかのように叫び声をあげるが、それまで徹底して穏やかだった彼が心にどのような煩悶を抱いていたのかは表象不可能な領域なのだ。映画はそのような表象不可能性に対して、徹底して出来事の連鎖を連ねる手法を選択している。一定のテンポで強引に切り替わるカットは、あらがえない時間の流れをより一層に意識させる。
子を殺そうとした父は殺される。少年の銃弾を身体に浴びながらも懸命にしがみつき、洗礼のように海に沈む内藤剛志の表情のすごさ。あの穏やかな表情にはなぜか表象不可能なものが浮かんでいるように思えた。そして刑事。父に車を奪われた刑事が現場の海にたどり着くと、すでに父は殺されている。少年と向きあう刑事。父と少年の場合と違って、その間にはかなりの距離がある。やはり穏やかな表情で刑事に「撃ってみなよ」と語りかける少年が言葉を発している最中に、無言のまま刑事の放った銃弾が少年の胸を貫く。ようやく解放されたかのようにやさしい笑みと共に死ぬ少年に対して、残された刑事は声をあげて泣き続けるしかなかった。そのアップで映画は終る。なんという映画だろう。しかし、ラストに感じた気分は『にっぽん淫欲伝 姫狩り』とよく似ているものだった。