下山事件の黒い霧

下山事件―最後の証言

下山事件―最後の証言

この膨大な事件に関する情報の集積から一体何が見えてくるのか? それに答えを出すのは難しい。この謀殺事件が、戦後の日本社会を「結果的に」方向転換させる象徴となったという、今まで解釈されたような事実だけでなく、さらに深い闇、ある意味で戦後は未だに続いている認識を生じさせるような何かを含んでいるということが本書のひとつの要点である。
まず、事件の概略を知るにはこちら↓でも参照してほしい。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/simoyama.htm
朝日新聞社会部記者の矢田喜美雄や元共同通信記者の斎藤茂男をとらえ、真相に迫らせながらも決して真の真相をさらすことがなかった戦後最大級の事件は、彼らの仕事を引き継いだ森達也や諸永裕司によって真相に迫ったかに見えた。しかし、それは違った。
ぼく自身、森達也の本をきっかけとして矢田喜美雄や松本清張などの下山事件関連の本へと遡行していっただけに、森のいつもながらの誠実な思考は信頼に足るものだと思っていた。森や諸永の著書は、今まで名前を伏せていたジャーナリスト柴田哲孝の証言に多くを負っていた。柴田の祖父は、下山事件に関連が深いと見られる亜細亜産業という会社に勤めていた。祖父を取り巻く人間たちの何人かは存命だった。ふとしたきっかけで下山事件に祖父が関係していたかもしれないという発言を叔母から聞いた柴田は、それまで見えなかった祖父像を追うという形で下山事件の真相へと迫っていくことになる。しかし、関係者の口は堅い。それほどまでに下山事件の黒い霧は深かった。仕方なくとった方法が、直接的な関係者の名前を伏せ、また自らの名前を伏せ、森達也らに発表を譲るというものだった。
だが、柴田が本書で指摘するには、森の『シモヤマ・ケース』には情報のねつ造があるという。間接的な立場である以上、森の仕事にも限界があった。さらに「週刊朝日」をめぐる森と諸永の確執。完全に真相を知ることなく死を迎えてしまった斎藤茂男と柴田哲孝の間にもジャーナリスト特有の探り合いがあった。事件の真相を知りたいという純粋な意志が歪んでしまうのは、下山事件をめぐる者たちの宿命なのだろうか。
下山事件に憑かれた者たちがそのように歪んだ関係性を呈してしまうこと。ここには下山事件そのものの本質がかかわっているように思う。矢田喜美雄の仕事によって、あるいは松本清張の説によって、闇に葬られた事件はCIC(占領軍情報機関)やCIAやGHQのうちG2による謀殺疑惑が濃くなった。もちろん、警察(捜査1課)*1によって自殺と断定され事件が事実上迷宮入りしてしまった時から、様々な疑惑が渦巻いていた。警察による目撃証言のねつ造、改変、隠蔽。疑似情報の混入。左翼犯行説。反動勢力による陰謀。海外の殺し屋。とにかくありとあらゆる情報が浮上しては、決定打とならないまま迷走を続けた。下山事件にとらわれる者は、他殺説と自殺説の間に揺れ、また背景では金が動いたり、自分も消されるのではと脅えたりした。ゆえに、2次情報、3次情報と歪みが出てくる。プロパガンダ戦略も行なわれる。柴田が言うには、巧みなプロパガンダの方法は9割の真実の中に1割の嘘を紛れ込ませるらしい。だから証言にリアリティがある。また、証言は間に人を媒介してなされる。さらに歪む。
こうした過程によって生みだされた膨大な事件情報の集積。これを紐解いていった柴田の仕事は凄まじい。いや、そこには何度も躓きがある。それにある意味、この事件を解くそのようなミステリ的な過程は、人に真相を欲望させるような醍醐味に満ちている。だが、ふと考えてみると実行犯の容疑者として挙がる名前が真相の欲望を満たさないことが分かる。下山事件に関して少なからず何らかの本や資料を読んでいれば、彼らについてある程度の情報は得ているが、それを知ったからといって何もない。あまりに複雑で、当時の日本社会ばかりか占領軍をも巻き込む事件の規模のために、まるでミステリのようにシモヤマ・ウイルスに感染してしまうこと。それは一方の事実である。が、亜細亜産業社長、矢板玄へのインタビューから真相への欲望は方向転換せざるをえない。
矢板は「戦国武将のような」と形容されるほど威圧感のある人物でジャーナリストや政治家などをも圧倒する人物だった。もちろん、すでに死んだ柴田の祖父同様、彼の内には真相がある。孫の柴田は邂逅を果たす。スリリングなインタビュー。矢板の言葉には事件を解く上で重要な言葉が出てきた。亜細亜産業という名前の由来。満州鉄道の「あじあ号」からとられたもの。下山事件の意味。共産主義勢力が力を失いドッジラインに沿った戦後経済復興への転換期となったというのが「結果論」だということ。そして、柴田が祖父の当時の日記を読んだと言ったことに対する寡黙。豪傑矢板玄が始めて見せた狼狽だった。
祖父の日記。柴田は祖父の死後、祖母が焼いた、祖父の英語で綴られた日記が存在していたことを知っていた。しかし、それを読んではいない。矢板玄とのかけ引きにおいていわばカマをかけたのだった。このインタビュー後、しばらくして再会かなわず矢板は病気にて死亡した。インタビューの中で前述の寡黙の後、矢板は言う。
「おれが死ぬまで書くな。約束しろ」
矢板が亡くなってから、直接的な証言を得ることはかなわなくなったが、柴田は事件の確信へと半ば直感的に迫っていく。謀略の背景へと。その過程で浮上してくるのは、意外なことに関東軍張作霖爆殺事件や七三一部隊満州などへの意志の再反映であった。あるいは三菱の存在。当時の右翼や政治家がアメリカとのかけ引きを利用して再軍備を狙ったこと、アメリカの下請けのように思われていた機関が逆にアメリカを利用しようとしていたこと。そのような戦前、戦中から受け継がれてきた意志が戦後の荒波で隠蔽されつつも、連綿と引き継がれ、貫かれていたということ。下山総裁の殺害は社会の混迷の単に象徴的事件なのではなく、「良い意味でも悪い意味でも正義漢」であったと言われる下山を殺さねばならない理由が一部の人間にはあったのだ。七三一部隊の残党が戦中の後悔にかられつつ証言したのは、下山総裁には明らかに拷問がなされていたということだった。事件を知りつつも止めなかった者たちは、それに乗じて戦後の転換期をやり過ごした。
時間の経過と共に事件が真相が露見されそうになりつつも、疑似情報や隠蔽工作によって再び黒い霧が覆ってしまう。下山事件の抑圧は未だに存在している。戦略的にアメリカを利用した吉田茂。その影では吉田に守られた者もいた。CIAの吉田ファイルにはまだ公開されていないものがあるという。複雑な事件である。しかし、水面下で貫かれてきたものは今も守られ続けているのだ。それが解明されない以上「戦後」が終ることはない。表面で何かやった気になっていても、隠蔽と忘却の日本人的体質が変わることはない。柴田哲孝下山事件を通して不断のアプローチの可能性を示したのだ。

*1:捜査2課は他殺説。