世代齟齬

本当は今日から帰省する予定だったが、いろいろともたついてしまい、結局明日の朝一番に変更した。それにひとつ観ておきたい映画があったのだ。

  • 17歳の風景 少年は何を見たのか(監督/企画/原案:若松孝二、出演:柄本佑etc)

期待して行った割には正直もの足りなかった。ぼくが感じた気分は、だいたいパンフレットに記載されている足立正生の苦言や大塚英志藤井誠二の対談で示されている。
映画は少年が自転車に乗って北へ向かう、その道中で戦中世代の針生一郎在日朝鮮人のお婆さんの話を聞くというシンプルな構成で、ほとんど劇的な要素はない。(殺した母のイメージと重ね合わされる)自転車、山や海などのプリミティブな風景、少年の身体。自らも風景に身を委ねたらしい若松孝二は劇的作為を拒んでいるかのように、ただひたすらそれらの要素を映すのみ。少年が出会う人間は記憶をあまりに能弁に語る。しかし、少年はその話に対して無表情、無反応。齟齬。意図したかどうかは別にして、この齟齬はありありとフィルムに刻まれている。だが、それ以上のことを映画は何も語らないだろう。
少年は最後に壊れた自転車を崖から捨て、編集によってその場面には撲殺した母のイメージが重ねられる。少年は叫ぶ。しかし、これは17歳の若松孝二の叫びではないか……とついつい考えてしまいたくなるような作りに見える。主人公の少年以外にも、冒頭の方でラーメンを食べながら少年の母殺し事件について語る東京の高校生3人が登場するが、会話や振る舞いなどにまったくリアリティがない。この映画でリアリティが宿るのはむしろ年老いた人々の能弁な語りだった。当然、それが説得力をもつこともない。フィルム上での世代齟齬……それだけでなく、フィルムで描かれる少年像と現実の少年像の齟齬も大きい。そういった薄っぺらいフィルム上の少年像が若松孝二の解釈だとすれば、少なくともぼくにとってはかなり受け入れがたいものだった。若松孝二ならばもっと違ったやり方ができたはずだ。ぼくにとっては記憶もない時代の若松映画はいつ見ても強度に貫かれていたし、人物も風景もありありと迫ってきたのだから。