萌えカスを考える

嫌オタク流

嫌オタク流

まともにオタクについて考察しようとしたものではないけど、実際に氾濫するオタク的なものの多くはまともに扱うほどのものではないというのも事実。すべて一緒くたに「オタク」として持ち上げたり、叩いたり、未来を託したりするのはおかしい。
ぼくはもともとオタク的なメンタリティで中学生・高校生時代を送った人間ではあるけど、インターネットもなく、片田舎でそういったメンタリティを共有する人もいなかった状況と、今の「恵まれた」状況とではまったくオタクなるものの育み方が異なる。個人的には痛いところは少しで、だいたいは痛快な内容ではあった。たぶん、この本を読む人それぞれのバランスによって、痛さと痛快さの具合も違ってくるんだろう。本気で反発するのは本書で批判されている嫌韓流と同じ偏狭な考えでしかない。
ノイズを遮断してピュアな自分を肯定することで、知らないもの/知りたくないものとの接触を回避するというあり方には可能性はない。結局、大澤真幸東浩紀の『自由を考える』みたいな結論になっていた。逆に、中原昌也たちが知らない/知りたくもないオタク文化接触することで可能性が開けるわけでもないだろう、ということも伝わってくるが。しかし、中原昌也が『コミックメガストア』を初めて見た時の反応は面白かった。

中原 何だよこれ! もうワケ分かんねえ! ワケが分かんねえよ! 何だ! うわ! 何が起こってるのかまったく分かんねえ!

ここまでの反応ができるメンタリティをいかに形成したのかという方が気になる。