アニメにおけるキカイのカラダ

攻殻機動隊STAND ALONE CONPLEX』の第十二話「タチコマの家出 映画監督の夢」を見て、前半部分のタチコマと少女のエピソードを興味深く思った。飼い犬の死を受け止める少女を前に、「家出」したタチコマは死を思う。自分は死を分からないと…そしてなぜかオイルを流す。
大塚英志氏は手塚治虫を題材にして「アニメにおける身体」をいくたびも論じている。手塚が戦争体験を受け止め、アニメキャラの死をどのようにして描こうとしたか。そして、それが戦後どのように継承されていったか。さらに『キャラクター小説の作り方』では、ライトノベルにおける課題としてその問題を提示していた。
ぼくが最近のアニメを見ていて勝手に思うのは、アニメにおけるキャラの死の描き方が奇妙に捻れているということだ。『まほろまてぃっく』と続編の『まほろまてぃっく〜もっと美しいもの〜』では、アンドロイドの死が主題化される。ほのぼのラブコメ&戦闘美少女風な展開で始まるこのアニメは、それぞれの作品において結末に近づけば近づくほど、シリアスモード全開になってそれは極限=アンドロイド「まほろ」の死にまで達する。その傍らでは、サブキャラであるアンドロイド「みなわ」の心をめぐる物語も展開する。まほろの死は、主人公である美里優の喪失感として、ぼくたちに激しい悲しみを刻む。失った者が戻ってこないということは、最終話の奇抜なトーンと、ラストで再現される「声だけ」の楽しい日常によって、痛ましいまでに描かれる。そういえば同じく山賀博之監督の『アベノ橋魔法☆商店街』でも、失った者(あるいは時)が戻ってこないという痛みは、主人公サッシの現実逃避(?)によって描かれていた。
キャラの死の描き方に見る捻れとは、単純に言ってみれば、さまざまな「媒介」を重ねることでなされていると思う。『まほろまてぃっく』のアンドロイドという身体の媒介…つまり死なない存在としてのアンドロイドの死という。そして『アベノ橋魔法☆商店街』では記憶−時空の媒介。
ちょうど一昨日やっていた『スナッチャー』で、メタルギアというコミカルなロボット(タチコマのような存在)が自爆しながらもラストで再び蘇ってくるという自明性は、もはや疑わしくなっている。ぼくは山賀監督の二つの作品を切実に見たし、共に強く支持する。そして、9.11後の文脈を含む今の現実において、楽観的な表現にリアルさはないと思うし、いろいろなやり方で現実に対峙しようとする姿勢には心打たれる。やはり先日観た映画、アトム・エゴヤン監督の『アララトの聖母』でも、語りの媒介ということが大きなテーマになっていたことをあわせても、アニメにおける媒介という手段による捻れは、とても興味をそそられるものである。
実は今の時点で『攻殻機動隊STAND ALONE CONPLEX』は途中までしか見ていない。最初の2、3話にはほとんど面白みを感じなかったが、その後急速に面白くなっていった今回のシリーズには、前述のようなアニメの問題においても強く興味をひかれている。タチコマが死を考えるエピソードはまだまだ序の口にせよ、後半に大きな期待がもてることは確かである。