脱出、そして完結

「ファースト・ガンダム・コンプリート」第三夜ついに完結。最終話「脱出」が終わってからも余韻は続いたままだ。やっぱり『ガンダム』はいいなぁ…と。全43話。オールナイト第一夜はこんなものかと冷めて観ていたが、第二夜になると昔の気分*1が蘇ってきて、そして第三夜は熱いものが込み上げてきたのだった。
ぼくの感情のピークは第41話の「光る宇宙」に訪れた。ララアとシャアとアムロとセイラの交錯する感情。それにあの前衛的で抽象的な心象風景の演出。シャアをテーマにしたおかしな歌が一瞬流れる場面はあるが、その他の場面の演出は本当に素晴らしいと改めて思った。さすがファースト・ガンダム
抽象的な心象風景といえば『2001年宇宙の旅』だ。『ガンダム』の余韻から脱するために少し考えてみると、1968年スタンリー・キューブリックによる『2001年宇宙の旅』とリチャード・フライシャーによる『絞殺魔』が同時発生する。これは事件だった。というのも、どちらの作品も抽象的な方法を使って内面、心象風景を描こうとするアプローチをしたからであった。
さらに脱線すると『絞殺魔*2では激しい画面分割を行っている。最近の映画に画面分割の多用を見るにつけて、かつての画面分割からの流れを検討する必要がありそうだが、それは措くとして、黒沢清の『ドッペルゲンガー』やジョエル・シューマカーの『フォーン・ブース』などを筆頭として用いられたのは記憶に新しい。もちろん、デ・パルマなんかはずっと画面分割をやっていて、この前の『ファム・ファタール』でもそれは健在だった。
視点をかえると、アニメでは画面分割など当たり前のようにやっているという事実に気づく。ロボット・アニメなどではそれがなくては成立しないほどだと思えるし、今回『ガンダム』を観ていても意識化するに当たらないほど画面分割という方法が自然に溶け込んでいる。そうすると、画面分割というのはもともとアニメ的な手法なのかと思えるがどうだろう。
その反面、内面や心象風景の映像的な描写は、1968年の2作品が革新的だったように、映画からアニメへの流れではないのだろうか。もっとも、それ以前に内面や心象風景をあのような抽象的な方法でやってみせたアニメがあったかどうかぼくは知らないので、これは憶測に過ぎない。けれども、もしそれがあったとしても、1968年の2作品の影響力の大きさを考えると、それ以前の何らかの作品は取るに足らないものとなったかもしれない。
まあ、いろいろ考えることはあるにせよ、この冬の1日に熱き夜が蘇ったことはこの上ない体験だったのである。

*1:昔の気分といっても、リアルタイムに見てはいない。ぼくが生まれたのは『ガンダム』の放送が終わった後である。おそらく何度目かの再放送の時の記憶だろう。

*2:傑作。原題は"THE BOSTON STRANGLER"である。日本でも発売しろ!ぼくが最初に観たのは、映画美学校の講義で青山真治が持参してきたマイ・ビデオにて。しかも、テレビの深夜放送で録画したものらしく吹き替え版で部分的に。その後、アメリカのどこかのサイトで衝動的に購入して見た。英語が分からなくても、内面描写の方法を見るだけで楽しめる映画なのに…