節約とか裏技とか

そんな特集記事ばかりで賑わう『SPA!』と『サイゾー』のそれぞれ最新刊をざっと読む。毎回毎回懲りずに買っているともったいないなぁ…と思うのだが、最近は時間も体力もないため、立ち読みで済ませるというわけにもいかず、結局無駄金をはたいてしまうというわけだ。
サイゾー』の「押井守のツレヅレ鑑賞日記。」の言葉を読んで少しだけやる気が出てきた。それは次のようなくだりだ。

映画を使って何かを語るのではなく"映画それ自体を成立させる"ということが根元的な動機だ。自分が映画をつくる前には、「映画」は存在しなかったんだという強い想い、自分がつくるものこそが最初の映画になるという確信があって、初めてその映画は生みだされる意味を持ち得る。つくり手にそういう強い想いがないものは、映画に限らず、なんであっても無意味だと僕は思う。

イノセンス』の制作には3年ほどかかっているらしく、ぼく自身が何かを作ろうとすればそんな膨大な時間と比べるべくもないほんのささやかな時間でしかないのだが、それでも何かを作るときに動機付けを持ち続けるということは難しい。過程において一喜一憂して途中でやる気をなくしてしまったりするので、最初から最後までやる気を持続させることはとても困難なのだ。
これほどに多大な期待を背負っている押井守でさえそうなのだから、それに比べればノミほどにも価値がない*1ぼくの行いなど何の意味もないではないかという無気力に襲われてしまうのは当然である。しかし、引用箇所で押井守が述べているように、そのような無気力あるいは困難は、おそらく何かを語ろうとする意志から生じるものなのであり、そのような思い上がった意志が動機付けをスポイルするのだろう。
逆に言えば、「今まで存在しなかったものを自ら成立させること」そのものを意志することこそが、何かを作ろうとする動機付けを担保する要素となるのではないかと思う。重要なのは、「何か(=内容)」ではなく「何かの成立(=行為)」なのだと思った。そう考えると、ぼくにも何かしらやる気が湧いてくるのだった。

*1:ノミにも価値があるぞという反論もあるかもしれないがそれは措くとして…