駒場の静けさ

井の頭線に乗って駒場東大前へ。この静けさは2年前ぐらいに東京ティンティンの芝居を観て以来かな…と思いつつこまばアゴラ劇場に赴く。演目は5年ぶりの再演らしい『夏の砂の上』。
古めかしい日本家屋の一室にくたびれた男が海苔弁当を提げて腰を下ろす。蝉の声。あとは30歳前後と思われる男が動くときに生じる畳ずれ布ずれの音のみ。これがあの「静かな演劇」なのかと少々感動に浸ってしまった。TVでは何度か観たことがあったが、やはり生だとまったく違う。それは緊迫感である。
沈黙を引き裂く足音、方言、麦茶を注ぐ音、電話のコール音がこれほど緊迫感を伴って現れるような芝居をかつてみたことがあっただろうか?松田正隆のシナリオ、平田オリザの演出、どちらも素晴らしいに違いない。この芝居のリアルさは、あらゆるものを組織しないことを意志するリアルさである。それぞれの登場人物のコミュニケーションの齟齬。絶え間ない齟齬。齟齬に継ぐ齟齬によって決裂へと向かうのではなく、「空気*1」ないしノリが場を統御してゆく。
しかし、『夏の砂の上』がスリリングなのは、日本人的な(ディス)コミュニケーションを反復しつつも、それに亀裂を走らせる穴がところどころに穿たれるからである。主人公の妹の、娘に対する無責任、主人公の元妻と友人の不倫、友人の妻の怪我、友人の唐突な死、主人公の姪の制御できない感情など。それらが予告もなしに、日常にごく自然に入り込んでしまっていることが病理的に見える。しかし、いくら病理的に見えようとも「それでも日常は回っている」のだ。
この芝居を観ていると、日常というのが何の脈略もない断片の連なりによってできていて、それが日常の一貫性として回っていることの奇跡を実感できるような気がする。それが組織されているように見えるのならば、ぼくたちがひとつの印象に基づいて無意識的に組織しているに過ぎないのだ*2青年団の凝縮された2時間をじっくり観るならば、それがまったく組織されてなどいないことを実感できる。その奇跡を実感すること。
家に帰る途中で知人から電話。ミルク寺という劇団の主宰者だった。2月の公演の撮影を頼まれる。この前やったばかりなのに…小劇団は辛いのだ。現在は脚本執筆中で年内には仕上げるつもりらしい。ぼくが、青年団を観て来ましたよと感想を添えて言うと、とてつもなく羨ましそうな雰囲気だった。本当に忙しいらしい。ぼくはいつ映画を実作する場に戻れるのだろう。もう少し勢いさえあればなぁ…

*1:山本七平の『「空気」の研究』などを参照。ごく簡単に言うと、たぶん日本人特有の雰囲気みたいなもの。

*2:これは歴史についても指摘できるだろう。