ロシア的想像力について

ずいぶん大雑把だけどレポートを書き終える。アレクセイ・ゲルマンが『フルスタリョフ、車を』のパンフか何かで「ロシアは最悪だが最高の国だ」*1みたいな主旨のことを書いていて、その時からロシア的アンビヴァレンスは一体*2どこから来るんだろうと考えていたのだけど、やっとそれに(ひとつの)明確な答えを見つけられたような気がする。
自由への希求と支配への希求。ロシア的な想像力においては、これが表裏一体なのだ。広大な大地がそういった心象を呼び起こす。どこへ行っても陸地が続くという果てしなさ。ロシア語で言うとпростор【プラストール】であり、意味は「広々とした場所、自由闊達の境地」の2つである。
ロシア人の自由への希求とはどこかで断念が伴っているのだ。例えば、島国日本の民が海に向かって思いを馳せる「自由」とはまったく異なる。さらに十世紀末の東方キリスト教の伝来があって、初めてロシアに体系的な文字が用いられるようになるが、この時以来、ロシアの外的文化受容形態がある程度決まってくる。混淆である。ロシア人は主に大地に根を張る農耕民族であり、多様な民族がそれぞれ個々の民族性に誇りをもっている。断念を伴った自由への希求ということに照らし合わせれば、根を張るということが断念とほぼ同義で、自由への希求に当たるのは外的文化への希求ということだ。根を張っていても、どこかにある真理を探しているのがロシア民族だというわけだ。これほど西欧文化をうまく自分たちのものにした民族は他にいないのでは…と思うほどだ。
ドストエフスキーなんか、ロシア人にはドイツ文化もフランス文化もイギリス文化も理解できるが、西欧人にはゴーゴリは理解できまいと優越感に浸っていたりするのだ。トルストイだって、トルストイ主義の傲慢さ、特に西欧的な女性に向ける差別意識はかなりのものだ。ピョートル大帝が西洋文明を一気に摂取しても、ロシア文学が日本の近代文学のようにならなかったのは、ロシアが…ロシアだけが…というпросторの精神が常に揺るぎないからなのだ。
その点を押さえれば、あまりに広大すぎる土地をまとめようとする意志=ユートピア思想が次々生まれてくるのも肯ける。チェルヌイシェフスキーの『なにをなすべきか』からフリーメーソントルストイ主義、『カラマーゾフの兄弟』における「大審問官」、マルクスレーニン主義…自由への希求は支配への希求へと反転し、支配への希求は自由への希求と反転するのだ。

*1:大筋では違ってないはず。パンフレットはあるはずなんだけど、探すのが面倒で確認していない。

*2:清涼院流水著『カーニバル』に出てくる「一体ちゃん」というキャラは謎だった。読んでいるときは、一休さんのもじりだと気づかなかった。なぞなぞ合戦やったりしてたのに…