なぜかジェラール・フィリップ

有線放送の「海からのメッセージ 〜クジラ・イルカ〜」や「マタニティ・ミュージック」というチャンネルにはまって、半日ぐらいまどろんでみた今日は日曜日。半覚醒のまま枕に沈んでいたのだった。
やっと起き出た3時過ぎ、新文芸座に向かった。先日から「魅惑のシネマクラシックス Vol.4」が始まっていたので、こういう機会でもない限り、古き良き名作をしっかり観ることもないぼくは、『肉体の悪魔』と『モンパルナスの灯』との2本立てを観に行った。ジェラール・フィリップの魅力。
映画館に駆け込んだ時間はちょうど『モンパルナスの灯』が始まる直前だった。ジャック・ベッケル監督・脚本。まだ観たことない映画だ…と思っていたら、途中でデジャ・ヴに陥ってラストのカフェの場面辺りで完全に思い出したのだった。しかし、なぜ最初の方は気づかなかったのだろう。カウリスマキの『ラ・ヴィ・ド・ボエーム』と混同してしまった場面もあるけれど、『モンパルナスの灯』の方が断然古いし、終始暗い映画である。乾いた夜の雰囲気など素晴らしい。やはり、ぼくはところどころに挿入される実存的な場面が好きだ。
物語の語り口が絶妙で、ひとつのエピソードともうひとつのエピソードを繋ぐ時のきっかけなどは特に素晴らしいこの映画では、何度か不自然なほど長くて静寂に包まれたシーンがあり、例えば、ジェラール・フィリップとアヌーク・エーメが南仏の砂浜を歩く場面だったり、同じく2人がセーヌ河沿いで口論する場面だったり、ジェラール・フィリップがカフェで絵を売って回る場面だったりする。これらの場面での存在感は、スクリーンからそのまま迫ってくる何物かによって、ぼくに強くアピールしてきたのだった。やはり時代なのか…それは大島渚の古い映画にもたびたび散見する。
しかし、一番印象に残ったのは、ベアトリスという高貴な女を演じるリリー・パルマーだった。無償の愛を司るジャンヌことアヌーク・エーメよりも、ぼくは断然リリー・パルマーだ。決して気品を崩さず、ジェラール・フィリップが演じる画家モジリアニを愛し続ける女。しかし、他の女たちが劣っているわけではない。モジリアニを取り巻く女たちは、カフェの使いっ走りであろうと娼婦であろうとアパートの管理人の老婆であろうとみんな魅力的なのだ。この映画は紛れもなく女の映画なのだ。
肉体の悪魔』はそれに比べると、あまり感情移入できない映画だった。クロード・オータン・ララ監督。まず、前者と比べて女が魅力的でない。ミシュリーヌ・プレールは、フィルモグラフィーを見るとジャック・リヴェットの『修道女』などにも出ていて、ぼくも見たことあるはずなのに覚えていなかった…まあ、ビデオで見たリヴェットの映画などで顔を覚えるというのは特別に意識でもしていないと難しいかもしれないが。
ジェラール・フィリップは若い青臭さがうまく役柄に生きていて、その点はそれなりに魅力的ではあったけど、第一次世界大戦を背景にした恋愛叙事詩として観ると、ちょっとした感情で揺れ続ける2人の恋愛など、はっきり言ってどうでもよくなってくる。こういったジャンルの嘘臭さは、ぼくの個人的な性格に起因するのかもしれないけれど、アンジェリーナ・ジョリー主演の『すべては愛のために』も結局同様の抵抗感ゆえに観に行けなかった。もっとも、ラディケの小説を読んでいないぼくに、この作品の本質は理解できないだろう。
ということで、映画の技法的な観点に注視すると、やはりこれは素晴らしかった。特に、運命に引き裂かれた男と女が初めて結ばれる時のカメラワークとして、ベットに倒れ込む2人を捉えたカメラがそのままぐるりと回り込んで、格子を隔てながら視線を遮ったと思うと、横から女の手が伸びてきてランプの灯を消すところを捉え、カメラはそのまま動いて暖炉の消えかかった火を捉え固定されるのだが、2人のまぐわいを表して火は再び勢いを強める。映画のラストでは、それと対照的に、病気で瀕死になった女を捉えたカメラがやはり格子を隔てながら回り込んで、暖炉の今度は勢いのよい火を捉え固定されるのだが、火は次第に弱まって消えてしまう。そこに葬儀の場面がオーヴァーラップされ、Finの文字。古典を侮るなかれ。
新文芸座では2月7日から山崎豊子原作映画の特集がある。これはぜひ観に行かねば。『白い巨塔』のTVリメイク版はまったく観ていないが、オリジナルぐらいは観ておく必要があるだろう。できれば、長部日出雄トークショーにも行きたい。