ハリウッドを追われた、2人の映画作家

池袋の新文芸座に行ってきた。今日の特集はジョゼフ・ロージーニコラス・レイ。上映作はそれぞれ『恋』と『孤独な場所で』。どちらも傑作だった。そして、どちらも暗い結末だった。個人的には、ジョゼフ・ロージーの『恋』をより好む。
イギリスを舞台にした上流階級の物語。ある大一家のもとに居候する12、3歳の少年の恋心の揺れを描いている。ぼくが連想したのは『ベニスに死す』であり『チャタレイ夫人の恋人』であり『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』であった。どの映画にも似ているようで似ていなくて、似ていないようで似ていた。
スタンダード・サイズのスクリーンにきっちり決まった構図が美しくて、未成熟な少年たちの身体・表情、成熟した上流階級の者たちの毅然とした物腰、そして隣人である農民の男の野生に見るそれぞれのコントラスト。緑がかった光の中に、どれほど瑞々しい世界が描かれていようか…。少年は、一目惚れした友人の姉と屈強な農民の間で訳も知らず「郵便屋」をやらされ、やがて自分の役割に気づく。失恋。しかし、物語はここでは終わらない。その後がさらに面白い。
農民との会話からキス以上のことがあるということを知り、少年はそれが何なのか訊ね続けるだろう。男と女についてもっと知りたいと願うだろう。恋した年上の女は好きな人と結ばれず、同じ階級の、戦争で顔に傷を負った男と婚約することになる。少年はその男に訊ねるのだ。ひとりの女と2人の男の三角関係において、女が何もしないのはずるいんじゃないか、と。婚約者はレディーは何もしなくていいと答える。この辺りの会話は隠喩的で、ジョゼフ・ロージー赤狩り云々と重ねてしまいそうになるのだけど、この映画で何が優れているかというと、少年を中心とした関係性なのだと思う。
物語の最後に、少年は女と農民の男の生々しいセックスを目撃してしまう。自分の母親との関係が複雑であることも示唆されていて、時間軸が飛ぶ短いシーンが幾度も挿入される展開で、この後、唐突に映画は幕を閉じるのだ。時間軸が飛んだシーンはおそらく少年の老いた姿だろう。生々しい性を目撃した少年がやがてどうなってゆくのか…それはぼくたちの想像に委ねられる。
派手な上流階級の生活、大自然、生々しい肉体の狭間で、揺れ続ける少年の意識。本当に美しいがどことなく苦い映画だった。
ニコラス・レイの『孤独な場所で』も、なかなか異色な映画だ。主人公はハンフリー・ボガート演じる映画の脚本家。彼はある殺人事件に巻き込まれるのだが、事件の経過はほとんど主題とならなくて、事件を契機に知り合った女との関係が映画の主題となっている。しかし、その事件の容疑者の嫌疑がかかっているということが、間接的に男と女を狂わせていくのだ。この辺り、最近では『ミスティック・リバー』で描かれたデイヴとセレステの関係に近い。男は無実にも関わらず凶暴性が加速し、女は疑いからやがて恐怖心を抱き始める。
モノクロームの見事な光と陰が、男女の関係に陰影を際立たせ、2人の間の溝は決定的になってしまう。皮肉にも、結婚を決めた日、事件の犯人も自白し、そして2人の関係は終わり、映画もそこで幕を閉じる。物語内でも、この日に脚本家の新作が完成されていて、注文にそぐわないものを作ったにもかかわらず誉められていることが語られる。ボガートの演じる脚本家は、原作に忠実な脚本を書くことを好まず、自分なりに「芸術的な」ものを書くことを信条としているのだ。彼の友人はそんな偏屈さを良しとしないながらも、彼の実力を買っている。
ぼくがこの映画を観て思ったのは、どうしてこのような物語を作ったのだろうという疑問だった。いや、どうしてこういう演出をしたのか、と言い換えてもいいだろう。この映画のある種の捻れはそんなことを感じさせる。やはり、この映画もジョゼフ・ロージー同様に、ニコラス・レイの何らかの立場や心情が関係しているのだろう。それについて何か論じるには、ぼくに材料が乏しすぎるので、いずれまた機会を持ちたい。
ヴィム・ヴェンダースの『ニックス・ムービー/水上の稲妻』が、ぼくの好きな映画の中でも上位にあることを最後に付け加えておこう。