『ニューオーリンズ・トライアル』も観に行った

こいつはやられた!単なる法廷モノではない。被告・原告の弁護士たちに焦点をあてるのではなくて、とりわけ陪審員たち、さらに陪審員を含めて裁判を操ろうとするプロフェッショナルなコンサルタント、その根っこ隠されていた過去の因縁。それぞれが表層的なレベルで絡み合った高度なエンターテイメント映画。
冒頭から加速度的に進行するパンチの効いた展開は、断片的で派手なショットによる無数の積み重ねであり、こういった小手先だけのエフェクト派を好まないぼくはもしや…と危機感を覚えるも、語り口のうまさに取り込まれてしまった。まず、陪審員が選出されるまでが面白い。日本でも陪審員制度が検討されている昨今、まだ観客にとって素性の知れていないジョン・キューザックの「嘆き」*1はなんとなく共有できる。日々の(豊かとは言えない)生活より国家の正義のほうが大事なのか?ダスティン・ホフマンの演じる弁護士のみがベタに正義を追求しているの(しかし、彼も物語の展開の中でアイロニーを感じたりしているのが窺える)を除けば、あらゆる人間が正義など信じていない。陪審員に選ばれる者たちは、それぞれ微妙な立場の違いはあれど、みなが利己的に振る舞っているか、正義を信奉しつつも利己的に帰結しているかどちらかなのだ。
そんな構図が戯画的に描かれつつ、中盤は頭脳戦、肉弾戦を交えた戦略的なゲームの様相を呈する。ベタな陣営、すなわちダスティン・ホフマンの弁護士たちは、戦略戦線から取り置かれ、いくら裁判で熱弁を振るおうとも、その効果は期待できない。その意味で原告と共に裁判から疎外されている。主要な戦略戦線を形成するのは、陪審員のひとりに選ばれたジョン・キューザック&その恋人レイチェル・ワイズ、対するジーン・ハックマンの統率する被告側のコンサルタントである。この戦いのスピード感は凄まじく、息をつかせないものがある。
けれども、重要なのは、この映画がある種のテロリズムとして描かれていることだと思う。誤解なきようにいえば、ぼくの言っているのは武力的なテロリズムではなくて、積年の恨みを水面下で持続させ、その最も効果的な行使に向けて潜伏させる形態としてである。これはやはり9.11以後の映画なのだ。そして、銃社会のシステム的な問題を(不徹底ではあれ)扱った点でコロンバイン事件後の映画でもある。両者を併せれば、『ボウリング・フォー・コロンバイン』を受けてのフィクション映画だとも考えられる。そういった点において、『ニューオーリンズ・トライアル』は根深い問題群を引き受けた野心的かつ現代的な物語と言える。だからこそ、ぼくはこの映画の図式的エンターテイメント志向に多少不満をもつ。
例えば、豊かな暮らしとはいえないが、そんなに不満があるとは思えない生活をしている者として登場するキューザックが、ジーン・ハックマンらと戦う動機は最後に、衝撃的に明かされるわけだが、これが何とも図式的に感動を誘うのである。まるでとってつけたかのような動機として、銃の問題が浮上してくるのだ。そこに、銃で殺された少女をくっつけることで悲劇的な演出が完成する。だが、これでは銃社会の、あるいはアメリカ的なシステムの問題を隠すほうに向かうことになっている。
物語の終わりの方にある陪審員たちの協議にしたって感動的だけど、キューザックの指摘が受け入れられ、全員が本心から原告支持に同調するのはありそうもない。もっとも、元海軍の男がヒステリックに叫ぶ原告への厳しい言葉に共感することもありえないだろうが、他のそれぞれの陪審員は他人の裁判なんかよりも深刻な問題を抱えていたはずで、ちょっと気取って見えたキューザックがまっとうな発言を最後にしたからといってまとまるものではないと思う。むしろ、まとめてしまってはいけないのだ。
これは先日観た『リクルート』という映画の中身にも関わってくるが、おそらく陪審員たちの密室の協議は、やり手コンサルタントの戦略によってバラバラに分断された後では、疑心暗鬼の渦に見舞われているだろう。いい子ちゃん発言は、その背後に何らかの意図があるものとして受けとめられ、本心からの発言も同様に受け取られるに違いない。そこには空転するコミュニケーションの反復しかない、という方がリアルではないだろうか?
もしかすると、信念の合意への期待、希望として、あのような結末だったのかもしれない。そういう意図ならば、感動的に演出される物語は成功だったのだろう。しかし、最近のアメリカ映画における、決定的な断絶を印象づける作品の傾向として、『コール』『フォーン・ブース』『ミスティック・リバー*2リクルート』などを並べてみると、『ニューオーリンズ・トライアル』のリアリティは弱かったんじゃないか…とぼくは思う。

*1:カッコで括ったのは意味がある。とりあえず、この映画を観た人には分かると思うが、陪審員選出の通知を受け取ったときの嘆きのこと。

*2:イーストウッドに限って、作家的な傾向が一貫しているので別口に考えるべきかもしれないが…。