撮影終了。

最終回の芝居を撮影して、無事ぼくの任務は完了。ビデオの場合はほとんどすることがないので、じっくりお芝居を観させていただいた。大入り袋と商品券まで頂いて、手伝ったぼくの方が申し訳なくなってしまうほど…
劇場で、お手伝いに来ていたFさん(大学、バイト共に先輩にあたる女性)に久しぶりに会った。この日記を見ているというので当惑してしまった。仕事をやめるということにもちょっと驚いた。これでぼくにとって、大学卒業後の身近なモデルとして、はたまた就職という道がイメージしにくくなったわけだ。
そのFさんに先日の日記で、ぼくが芝居の人と自分自身の気性を腑分けしていたことを軽く突っ込まれたので、ちょっとだけ再考してみる。もちろん、芝居の人の気性が違うな…というのはぼくの個人的な偏見に過ぎないことは分かっていて、なんでそう思うかも実は自分なりに分かっているつもりだ。それは「解離」ということが関係してくる。
そもそもFさんは、ぼくが大学に入って最初に接した*1芝居の世界の人であって、ぼくが持つ芝居の世界のイメージに大きく影響を及ぼしているわけだが、Fさんに限らず芝居の人の多くと接する際にぼくはかなり緊張する。それは、演技をするということへの尊敬と恐れの入り交じった感情として、である。
その人が演技に関してどんな方法論を用いているかは別として、演技をするということはぼくから見て解離するということに近い。日常に置き換えて言えば、キャラを使い分けるとか、その場の空気を読んで適切に振る舞うということに近い。斎藤環の著作でも、そういった日本人のコミュニケーション・スキルについて触れていたりするものがあった*2。コミュニケーションに長けた(ように見える)人は、そういった技法に習熟している、つまり解離に親和性が高いように思える。
ぼく自身がそういったことをしないかといえば、もちろんする。空気を読んだりすることは、社交的になろうとする際に必要不可欠だから。けれど、ぼくにとってそれは後天的なものだし、東京に来た時に必死で修得した拙いものだから、解離の程度が大きいとひどく疲れるし、コミュニケーション自体から撤退したくなる。ネット上でもそれは同じで、ぼくには2ちゃんねらー的な振る舞いができない。いや、早い時期にそのコミュニケーション技法をマスターして参加していれば、おそらく普通にやっていたかもしれないが…。
考えてみると、そういった自分の性質とは、流動性に耐えられないということなのかもしれない。ちょうど最近この日記で取り上げた『リクルート』などの映画がテーマとしていたコミュニケーションのあり方に対して…ぼく自身はリアルだとか言いつつ、現実世界では否定的に捉えているのかもしれない。だからといって、アイデンティティが大事とかベタなコミュニケーションとか流動性を食い止めろとか、そんなことはこれっぽっちも思っていない。
むしろ(ぼくの考える)芝居の人たちは、そういった解離の技法を矛盾なく実践しているように見えて*3、その微妙な「距離感」を、ぼくは「気性の違い」と言ったのだった。
だからこれは、芝居の人に限らず、今のぼくにとっては様々な局面でぶちあたる実存的な問題なのだ。むずかしく考えすぎ、と言われそうだけど、こういった傾向はなかなか変えられるものではなくて、気がつくとそう考えてしまうといった感じなのだ。もちろん、悩み悩んで…というのは悪循環以外の何物でもなくて、それだけでは無限ループから抜けられない。だから、一方で実践はしてゆく。これはぼくの信条である。
問題は、こういった抑鬱的な感情をどのように創造性へと結びつけるか。しかし、生活に追われる身となっては、なかなかそんな余裕もなくて、映画作りという実践から遠ざかってもう数ヶ月。この日記が何らかの現状打破につながってゆけばいいのだが…

*1:それまで田舎で観た芝居らしきものといえば、学校に巡業してくるどさ回りの劇団ぐらいだった。

*2:『解離のポップ・スキル』は購入したけど未読。この本にこそ、今ぼくが触れようとしている話題に深く関係する主題があるのかもしれない、と想像している。

*3:実際はそんなことないと思ってはいるし、話をして印象が変わる人も多いけれど、固定観念というものはなかなか拭いがたいのだ。