下部構造・再考

「中間層」のキツさ、ひきこもり的な心理的悪循環を脱却する道もいくつか考えられる。まず搾取されないための生活態度として「教養」を身につけることが重要だ。稲葉振一郎が「インタラクティヴ読書ノート・別館」2月19日で『経済学という教養』について書いている。経済学は重要である。それは現実に影響を与えている。しかし、素人にはそれを知るすべがない。そういった素人にとって「教養」は必要だ。
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/books.htm
ひとつには、こういった現実を読み解くというか、複雑なシステムの本質を見つめようとする態度が求められる。
もうひとつに、最近読んだ『ポリアモリー』という本があったのだが、この中での「複数の愛の肯定」のあり方は実践として参考になる。ぼく自身がポリアモリーに共感し、実践するという意味ではない。そんなことを書いてしまうと、この日記を見ている彼女の逆鱗に触れてしまう。ではなく、ポリアモリーの実践が、現在の流動性に対するひとつの態度として、ぼくにはとても魅力的に思えるのだ。
この本の中の「複数の愛」というのは、同時に複数の人数とつき合いセックスするという流動性とは違って、ポリアモリーという名称でしか表せないニュアンスが含意されている。それは、ひとりひとりに対して誠実であろうとすることであり、1対1の愛に持続性を持ち得ない人にとって必要不可欠な愛の形態なのである。そのような愛の態度は、社会における様々なコミュニケーションにも適用できるはずだ。いや、むしろ複雑すぎる社会に対して、1対1、あるいは一夫一婦制のようなものしかモデルが示せないと、そこから脱落した者に疎外感を与えて、軽薄なコミットしかできない流動性を蔓延させてしまうのだろう。
もっとも、『ポリアモリー』の筆者デボラ・アナポールが述べる通り、生半可な意志ではポリアモリーを実践できない。本人も実践者だけあって、説得力ある議論が展開されている。新しいモデルを提供するという困難は、煮詰められた理論と実践による軌道修正という試行錯誤の継続でしか対峙することはできない。本書を読んでいると、ゲイやインターセックスなどのマイノリティ運動と同じぐらいの困難に直面したことが窺える。ポリアモリーの場合は、流動性に身を任せた性愛と勘違いされやすく、そういった面で「複数の愛」を真摯に伝えようとすると、途方もない努力が必要とされるとぼくは思う。その困難は、日本においてはもっと苛酷だろう。
もちろん、筆者は一夫一婦制的な単数の愛を否定してはいない。ただ、さらなるモデルとしてポリアモリーを現実に提供しようとしているのだ。ぼくはそれを労働や他の様々な対人コミュニケーションに適用できると思うのだが、具体的にはまだ煮詰まっていないし、よく分からない。とりあえず、そういった方向性は有効なのだという印象。機会があれば実践して、この日記に書きたいと思う。