就職戦線不安アリ

ストレート過ぎてネタかと思えるほどの名を冠した香山リカの新著『就職がこわい』を読んだ。読んでみると、ぼくたち世代の問題をかなり真面目に論じている。香山リカ自身が大学の教員として、それも就職委員という当事者として、就職できない/しない学生に接することから生じた疑問をデータなどをふまえながら考えているのである。ぼくの印象ではかなり真摯な内容で、就職できない学生やフリーターにも十分届く内容に思えるが、問題が問題だけに難しい部分もある。というのは若者だけの問題ではなくて構造的な問題だからだろう。しかも、その構造自体は曖昧でそれぞれの因子がはっきりしていないという問題もある。具体的に考えてみよう。
「無職」に代わって、就職問題にかかわる人たちの間で用いられている言葉に「無業」というのがある。定義は「高校や大学を卒業したあと、就職も進学もせずに『進路を決めかねている人』」ということらしい。文部科学省の「学校基本調査」によると、無業になる若者は1992年に8万5千人だったのが2001年には13万人に、2003年には13万3千人にまで増加したということだ。この無業状態にもいろいろな分類があるのだが、些末なことは措くとしよう。
香山リカが注目するのは、就職しない若者の「不安」である。その「不安」は従来の不安と違っていてもっと漠然としたものだという。というのも、就職について「不安」を口にする若者は決まって他のあらゆる物事についても「不安」を口にするというのだ。そこから推論して、香山リカは、若者は自分自身に「不安」を抱いている、すなわち解離に近い状態にあるとする。極端な例では、ある企業に内定をもらって安心していても、数週間もすると気が変わって自ら辞退することだってあるのだ。はっきりとした理由もないままに…
ぼくは「不安」と解離の親和性についてかなりリアリティーを持てる。これは就職だけに関する問題ではないからだ。東浩紀が言う「メタリアル」のあり方も一種の解離的な視点に支えられているし、ぼくたちの日常のコミュニケーションも解離と無縁ではない。キャラの使い分け、ネタ的コミュニケーション、キレる若者…などなど個人やマスメディアを問わず解離に関する問題、あるいはイメージの捏造は跋扈している。
就職がこわい』で取り上げられる若者は純粋すぎるがゆえに、労働の現場における矛盾をさらりと受け流すことができず、積極的に就職しようとはしない。また、就職しなくても生きていけるというパラサイト・シングルの道や、もはやモラトリアムとして考えられてはいない無業という道が存在する。こうして考えると、やっぱり就職の拒否はひきこもりに似ている。まさに本書ではそういった例も取りあげられるわけで、会社=戦場という半ば恣意的な認識が、その人自身に多大なストレスを与え続けるというケースを紹介していたりする。
若者の心理的背景は単純ではない。優越意識(万能感)を持つと同時に自己評価の低さ(劣等感)も抱えている。その捻れが、単純なメッセージへの短絡を生む。宗教、詐欺、過剰な誤読、ありふれたものへの共感。「自分は取るに足らない存在だけど、自分だけを判って欲しい*1」というやつだ。だから、個別な(に思われる)メッセージには過剰に反応する。文脈などを考慮せず、ベタに受け取ってしまう。就職面接などで厳しく突っ込まれると、まるで人格をけなされたかのように落ち込んでしまう。
人によっては冗談のような内容だけど、これはとても深刻だ。おそらくぼく自身にとっても。ぼくの周囲の人にはぼく自身を含めていわゆる無業の状態の人やその予備軍が多いのだけど、就職に際して、職場の人間関係や自分自身のやりたいことをできることがやはり重視されている。就職活動と就職後を乗り切ることができるのは、理想と現実の間で割り切りができる人である。当然のことだろう。けれども、それができない。なぜか?その背景には心理的な自己スパイラルがあると思う。
だいたいこんなイメージではないだろうか。就職への漠然とした理想→現実の厳しい状況→自己への漠然とした「不安」→就職への諦め…だいたいの場合、どこかで他人の介入がある。しかし、いくら励ましや割り切りの必要性を唱えられても、結局自分自身の心理的な迷宮に迷い込んでしまうゆえに、そこでは漠然とした「不安」という感覚しか得ることができないのだ。不況などの現実は確かに不安要因のひとつとなっているにしても、それは最初の期待値に影響するぐらいで、おそらく実際は、自己への漠然とした「不安」とはあまり関係していないような気がする。それについては、論者によっていろいろな見方があるらしいが…。
では、希望はあるのだろうか?香山リカはかなり消極的だ。もしこの言葉が届いてくれれば…というぐらいの姿勢である。困難とは分かっていても、就職するという体験の必要性を若者に訴える姿勢は感動的ですらある。
そんな香山リカが提示するひとつのあり方に「小ネタを楽しむ感覚」という例があった。望まない就職をしたにもかかわらず、日々の「トリビア」をそこそこに楽しみながら働く人もいるというわけだ。おお、これはまったく『刑務所の中』ではないか!なんの希望もない状況で絶望もせずにトリビアを楽しめるようになるには「動物化」しなければならないだろう。そういう意味で、就職の「不安」という問題を抱えてしまった人やひきこもらざるをえなかった人というのは、どこかで言われているように「動物」になれなかった人たちなのだろう。日常というデータベースの消費。それが来るべきささやかな生き方となるのだろうか。いや、それでもぼくは何らかの抜け道が他にあるのではないかと思いたい。
大塚英志の『サブカルチャー文学論』を読み進めていると、こじつけではなく、同じような問題意識が通底しているように思える。文学の道。村上春樹という虚構世界の情報空間への道と吉本ばななという物語構造の還元への道。文学のリアリティーはその2つの道しかなかったのか?大塚英志の問題意識は、晩年の江藤淳の問題意識をそのまま受け継ぐ形で述べられている。情報空間の徹底はすなわちデータベース→動物化への道に置き換えられ、ノイズを取り除き、物語を構造に還元することの徹底はすなわち解離への道に置き換えられるだろうか。吉本ばななのように徹底できれば良いかもしれないが、現実にはノイズを取り除くことができず若者は「不安」になる。
このような2つの道を拒否する第三の道はあるのだろうか?まだ『サブカルチャー文学論』を半分も読んでいないぼくは、大塚英志の考えに期待しているのだけれど、どうやら極端な2方向への分裂というのは、何らかの問題を孕むのが常であるようだ。そういえば、『自由を考える』においても同様なモチーフを論じていながら、大澤真幸東浩紀も明確なビジョンを提示することはしていなかったと思う。こういった問題の難しさは、それを引き受けていくことで短絡だけは回避せねばならないのだろう。どうにもまとまりが悪いがとりあえず徹夜が長引いているので、寝る。

*1:ナンバーワンになれなくてもオンリーワンを目指す!