昨夜の一幕

ホテルでのバイト中、真夜中を前後してひとりの外国人がやってきて、1ヶ月5万円で泊めてくれと言う。いや、正確にそういったのかは分からない。何しろひどくなまった英語で、ろくにリスニング能力のない(ついでに言えばスピーキング能力もない)ぼくにとってはなんとなくニュアンスを窺うのが精一杯だった。ともかく、1ヶ月の宿泊は単純計算で20万円ほどになるので、5万円など交渉をするまでもない。というより、単なるバイトのぼくに交渉の権限はない。
で、すぐに諦めた30歳ぐらいの彼は雑談をし始める。適当な単語を並べていたら、なぜか話が盛り上がってきて、いきなり"Where am I from?"と来る。何人に見えるか訊きたがっているらしい。どう見ても欧米系ではない。有色人種だった。鼻の下の髭が長く伸びていた。手に奇妙な紋章があった。ダビデの星じゃないけど、それに似た感じの紋章だ。イスラエル人じゃないけど、何かそんなややこしい事情の国かな…と思って適当に口にしようと思うけど、英語力のなさはぼくにそれを許さない。このままでは間がもたないと思って「イラン?」と言ったら、いきなり激怒。びっくりした。で、手元の紙に数字の1を書き、その横にイランらしきアルファベットを書き、次に2を書き、ぼくの方を見てさらなる回答を促している。困った。時が流れた。出てきそうで出てこない。それに、ふと口にした言葉がタブーに触れてしまいそうな不穏な空気が流れていて、軽々しい答えができそうもない。大学生と名乗ったのがまずかったか、手の紋章を学生なら分かるだろうと言わんばかりに強調してくるので、もうお手上げ状態だった。アイ・ドン・ノー、、、
インド人だった。たびたびイラン人と言われるのを大変不快に思っているのだそうだ。その後、何曜日にバイトに来るのかと訊かれたので答えたら、すぐ近くに住んでいてまたぼくに会いに来るらしい。じゃあ何のためにホテルに泊まろうとしていたんだ!そんな疑問は残るけど、雑談の内容をぼくなりに解釈した結果、どうやら日本のアパートのぼろい部屋に不満があるらしいのだ。だからホテルに泊まりたいが金はそんなに払いたくないらしい。日本の企業のIDカードを持っていたし、たぶんエリートなんだろう。途中で、ぼくのアパートの場所とか間取りとかを訊かれ、もしかしてぼくの部屋に泊めろとか言われかねない恐れを抱いてしまったが、1時間ほど話してみると、言葉の通じない他者とはいえ、なんとなくお互いに通じ始めているのが分かってきてコミュニケーションというものを感慨深く思ったのだった。