『クイール』を観る前に

まだ未見だった『刑務所の中』をビデオで借りて観る。ぼくは崔洋一の映画は数本しか観ていない。『十階のモスキート』『月はどっちに出ている』『犬、走る』『豚の報い』ぐらいか…あと、この前観たばかりのロマンポルノ作品『性的犯罪』。ロングショットでしっかりと場面場面を見せてくるという印象と、社会の周縁的存在に視線を注いでいるという印象をもっている程度だ。
しかし『刑務所の中』は評判通り面白い。どんな面白さかといったら、オタール・イオセリアーニの『月曜日に乾杯!』みたいな*1 エピソード仕立ての構成の妙とユーモアだろう。花輪和一の原作漫画を読んでいないのではっきり知らないけど、おそらく原作もエピソード仕立てだったはず。エピソードごとにサブタイトルも付いていて、刑務所生活を淡々と描いている。
前述のイオセリアーニは完全な演出によって日常生活のリアリズムを再現している。日常の些細な出来事を愛情溢れる視線で捉えているように見えて、実は計算された演出によって生じた「リアリズム」だということは、カメラワークやカットの繋がりに注視するまでもなく了解できる。そのことを念頭に『刑務所の中』を観ると捻れがあることに気づく。『刑務所の中』の日常生活はどう観ても異常で、ぼくたちが体験した小学校の理不尽な日常を何十倍にも過剰にしたようなものである。閉ざされた空間で制限された身体性が反復される。クロスワードパズルに回答を書き込んだら懲罰房行きだ。逆に、看守の眼から開放される時は制限のない普通の身体性を取り戻す。だからといって、脱走への意志を見せたり、家族との離別を悲しんだりという「ドラマ」は展開されず、他愛もない雑談をしたり、「めし」の美味さに感激したりするぐらいだ。特に、山崎努演じるハナワの心情はモノローグとして時折挿入されるのだが、本当にどうでもいいような些細な関心しか示さない*2
映像もまるで彼ら登場人物の心情に寄り添うかのように、同じ場面の反復を同じようなリズムで淡々と映し出し、なぜか「めし」だけは美味そうに描かれ、正月のちょっぴり豪華な「めし」について囚人同士が語り合う場面ではなんと全メニューが次々と映し出される。
さて、そのような『刑務所の中』を観ていると、そこで描かれる生活は二重の意味で「おかしい」。ユーモアに溢れていて、イオセリアーニの演出するリアルから逸脱しているという意味で。しかし、刑務所生活自体が過剰な演出によって成り立っている。囚人の管理された身体こそ通常の身体で、あるいは管理されることに心地よささえ感じているかもしれない*3。つまり「動物化」に近い。懲罰房で内職することに喜びを見出す描写辺りは、その極限の形に近いだろう。
管理に適応してしまった囚人たちの生活はまるでユートピアである。静謐で清潔な空間。悩ましい物事から開放され、単純な作業に身を委ねるだけでよい。軍隊的な熱狂とも無縁で、外側から見れば規則正しい全体主義でも、内側から見れば、それこそ山崎努のモノローグのように冷め切っているけど絶望しているわけじゃない、日常を楽しむ姿勢が通底している。
ぼくには、この映画は、「動物化」が極限まで進んだビジョンを映すもののように感じられた。
ひとつだけ極めて些末な部分で気になったことを付け加えておこう。崔洋一の観ていない映画は措くとして、『性的犯罪』とも共通するのはスローモーションの使い方で、ハイスピード撮影ではなくコマ落としを用いているのはなぜだろうと気になった。また、『性的犯罪』ではトラックの横転を、『刑務所の中』では空を飛ぶ飛行機をスローモーション撮影していて、何かこの作家の執着を感じるのだが、それは疑問としてとっておくとしよう。

*1:あるいはジャック・タチ風といってもいいだろう。イオセリアーニの作風をジャック・タチと重ねる人は多くいるのだから。

*2:例えば、ある囚人仲間の乳首がすごく小さいという話を聞いて、次の入浴の時には絶対に見てやろうと決意表明するなど。

*3:多くのアメリカ映画の囚人は管理されることに反発するのが普通だし、『女囚さそり』シリーズだって同じだろう。