「セカイ系」再考

先日の「夜のファウストまつり」に関して鈴木謙介による「セカイ系」の定義を紹介したら、分かりにくいという反応もちらほら見られたので読み返すと確かに分かりにくい。鈴木謙介の話を聴いている限りでは腑に落ちる説明に思えたので、これはひとえにぼくの手落ちだろう。ちゃんと書き直そうかなと思っていたところ、『ゲームラボ』3月号の東浩紀×斎藤環×砂×佐藤心による「座談会 オタクの教養2004」を読むと、東浩紀が「セカイ系」を解説している。ぼくの印象では、ほとんど鈴木謙介のものと同じ趣旨に思えるので引用しておこう。

東:基本的に大事なのは、世界がシミュレーション化しているということ、つまり「どんな物語も可能だ*1」ということだと思うんです。ある種の代替可能性みたいなものが極端に高まった世界といった場合、一方の現れ方としては、メタフィクション的な感覚が強くなる。もう一方の現れ方としては、代替可能なものの中で真実を求める、みたいな反動がすごく強くなる。こんな現実は本当は現実ではなくて、現実なんていくらでもありうるんだって話と、たった1個のことだけが真実でその真実に出会うことが運命なんだみたいな態度と、すごく極端なものが同居しているということですね。だから、一方ではすごく荒唐無稽な設定や、ある意味メタフィクション的とも言える設定が氾濫しつつも、他方ではそこで語られている物語というのは、キミとボクの、すごくベタベタなラブストーリーだったりする。これは、いわゆる「象徴界」がダメになったことによる2つの極端な反応であって、しかも両方ともが共存しないと安定しないような世界になっているのではないか、というのが僕のいいたいことですね。それと「セカイ系」は密接な関係にあると思いますけど。

ぼくが観た最近のハリウッド映画にも一部そういう傾向はあらわれているわけで、例えばベタベタなラブストーリーの部分が、ありがちな犯罪活劇みたいになっていたりすることの違いを除けば、多くの映画も似たようなパターンに陥っている。まあ、この座談会でも取りあげられているように、同じ「セカイ系」における想像力のあり方が問題になっている、ということはあると思う。
ついこの前ブックオフ玉置勉強の『恋人プレイ』を立ち読みしたらえらく面白かったので、すぐにヤフオクで購入してさっきそれが届いた。玉置勉強は『フラミンゴ』でたまに読んでいたぐらいだったので、ちょっと意外な感じがする話だけど、そもそも『フラミンゴ』でどういう話を描いていたのかはっきり思い出せない。「セカイ系」とはずれるがこういう話もリアルな問題として感じられると思う。

*1:ここで誤植と思われる表現があったのでぼくが勝手に訂正。趣旨はまったく変わっていない。