「NOT ALONE」

レイトショーで『ゴシカ』(2日付けの日記だが、行ったのは1日。映画の日だ。)。本当は『ロード・オブ・ザ・リング』の余韻に浸っていたかったけど、あえて気分をチューニングしようと個人的な期待作を観た。マチュー・カソヴィツ監督というのは意外だった。予告を観て以来、『ゴシカ』はファンダメンタル・ホラーだと思い込んでいたので、そういった文脈の監督か新手の誰かではないかとなんとなく当て込んでいたのだ。で、その思い込みは裏切られた。
この辺であらかじめ断っておくと、以下ネタバレ表現が頻発すると思うので注意。『ゴシカ』に限っては観る人によってはネタバレの有無を大きいと思われる。というのも、ぼくの最初の印象はジェームズ・マンゴールド監督の『アイデンティティー』に近かったからである。そして、『アイデンティティー』が目的として用いた手法を、『ゴシカ』は手段として用いているという印象も受けた。
ハル・ベリー演じる有能な精神科医ミランダ博士は、ペネロペ・クルス演じる女囚クロエを診察する。クロエが語る話は妄想的で、ミランダも信じようとしない。そんな患者に懸念を抱きながらも、夫(彼もまた精神科医)に愛され、同僚に恵まれ、幸福な生活を送っているミランダ。が、その日の帰宅途中、雨の中突如白い服の少女を目の前にして自動車事故を起こす。気づいたときは自らの仕事場である精神病棟に閉じこめられている。いつの間にか患者になっていたのだ。
ここから映画は変わる。何らかの精神病と見なされたミランダの言動はすべて信じてもらえず、自分がクロエの話を信じていなかったのと同様の扱いを受けるようになる。映像の主観レベルでは、ミランダの見る超常的なものが、後から妄想だと否定されるようになる。夢と現実の区別が曖昧になったかのように描かれるのだ。『アイデンティティー』と同様に、主人公は解離あるいは二(多)重人格であるかのような演出がなされる。
観ている対象が次々と否定される(ネタだった)という感覚は、むしろロジャー・ドナルドソン監督の『リクルート』を観ている時の印象に近い。ミランダ=ハル・ベリーの妄想的な演技も手伝って観客の意識は撹乱される。いったい何が本当なんだ、といった感覚が常に頭をよぎってしまうだろう。
この辺りはショッカー・ホラー的なものだけでなく、ファンダメンタル・ホラー的な演出もなされているのだが、解離的な演出が基調となっているゆえに、それほど恐怖を感じることはない。ファンダメンタル・ホラーの恐怖とは、ひとつに「もしかしたら本当にあるかもしれない」というリアリティのあり方に関係しているからだ。ここでは、限りない「はしご外し」がむしろ恐怖を半減させている。
そのような演出からは必然だったのか、後半の物語は妙に活劇じみてくる。ミランダの脱走。事件の真相へ。意外な犯人。対決。そして実にステレオタイプな犯人像と展開が用意されている。『アイデンティティー』の多重人格者が現実レベルでステレオタイプの見た目*1を有していたこととつながるかもしれない。そこでは、短絡的な想像力が共通して働いている。こちらは逆の関係になってしまうが、異常性癖というモチーフの短絡も同様である。
結局、ミランダは事件を経て霊能力に目覚めてしまう。本人はその扉を閉ざしたと言うが、結末では少年の霊を目の当たりにする。それが幸福なのか不幸なのかは分からない。しかし、「一度開いた扉は閉じることができない」ということを最後に印象づける終わり方は、『アイデンティティー』『リクルート』などとやはり共通している。これらは流動性をめぐる映画なのだ。その触媒としてそれぞれ、多重人格、CIA、心霊現象などがモチーフとされているのだ。さらにどれも最後にドンデン返しがある犯罪モノとしてエンターテイメントに仕立て上げられている。つまり、一部のハリウッド映画の構造における類型がここに示されているのだ。
しかしぼくは、『ハリウッド脚本術』を読み返さねばと思うほど、忠実な物語作りがそこにあるかどうかという問題はさておき、なぜこうも流動性というか、「一度開いた扉は閉じることができない」という結末が頻発しているのか気になってしまう。考えてみると『王の帰還』もそのような結末から自由ではない。自覚的にやっているのか無自覚にやっているのか…たぶんそれが今のリアルなのだろうが、ここまで続いてくると想像力の限界にさえ思えてくる。しかし映画としても、カメラが捉えるもの自体に説得力がなくなっていることの消極的な発露かもしれない。
そんな感じがしないでもないが、一方で常に納得がいかないような気もする。誰か明快な考察をやっている人はいないのだろうか。けれど、思い直してみるとぼくが無意識のうちにそういった映画を観ているだけかもしれない、といった可能性にも突き当たった。気乗りしない映画もあえて観てみるべきかもしれない。
あ、忘れていたけど、「NOT ALONE」というのは劇中に何度か出てくる血文字で、少女の霊による心の訴えとして現れるのだが、むしろぼくはメタレベルでの解離への誘惑に思えた。『ロード・オブ・ザ・リング』は2つを1つに統合しようとする話だったが、『ゴシカ』は1つが2つに解離してしまう話というわけ。

*1:青山真治「名前のない日記」での『アイデンティティー』評でも言及されている。