ついに完結

王の帰還』を観る。およそ3時間半もあっという間。まんまと現実逃避の世界にとらわれてしまった。同じスタッフ&キャストによる三部作なのだから、ほとんどの人にとってあらかじめ期待通りの水準が保証されているだろう。ぼくはこの10日間ほどで続けて三部作を観るといった怠慢な人間だったのだが、この『ロード・オブ・ザ・リング』三部作はむしろ期待通りだったがゆえに楽しめたような気がする。
最後のフロドの台詞(確かサムへの言葉としてナレーションされたものだったはず)に象徴されるように、この映画=物語は「2つのものを1つに統合する」という側面が重要だったように思う。まさに『王の帰還』は、ゴラム=スメアゴルが二重性を持つに至った回想的エピソードから始まるのだったし、指輪をめぐって二重人格的に振る舞う点、あるいは人間と非人間、生者と死者、老いと若さなど例を挙げればきりがないほど、二重性とその統合という運動が基調となっている。しかし、それはあらゆる物語に共通のことであって、『指輪物語』及び『ロード・オブ・ザ・リング』はそのお手本として良くできているという話にすぎない。
ファンタジーそのものが、現実逃避と表裏一体なのだから当然だろう。ちょうど大塚英志サブカルチャー文学論*1にも、『指輪物語』がベトナム戦争の時期に現実逃避として読まれたと指摘している箇所があった。ぼく自身、ロシア文学の授業でレポートを書く際、ザミャーチンの『洞窟』でそのファンタジー志向について触れたのを思い出した。『洞窟』は、革命後の悲惨な状況を原始的な生活の寓話に置き換えた秀逸な短編である。
なぜ『ロード・オブ・ザ・リング』がこれだけ大きな現象になっているのかと考えると、ついぼくも河合隼雄のように「箱庭療法的な機能」を考えてしまう。物語が人々の解離的な状態を統合するものとして召喚されたわけである。仮にそうだとすると、この『ロード・オブ・ザ・リング』の長さが必然とされたことは、原作からの制約ということだけでなく、人々の解離(不安と置き換えた方が適切かな…)を癒すにある程度の密度が必要だったということも関係しているのではないだろうか。
しかし、もちろんそんなことはないと思う。フロドは癒えない傷のために旅立ってゆくが、映画を観た後、少なくともぼくは余計に現実逃避に走りたくなる。それは良きゲームや良きアニメを体験したのと同じで、その良き世界から離れたくなくなるからで、ちょうどフロドの心理とは逆になるだろう。物語に内在的に言えば、フロドはホビット庄というファンタジーから切り離され、苛酷な現実にさらされる。その結果、ファンタジーに戻れない「傷」を背負ってしまう。あのナズグルに穿たれた「傷」は、サウロンの世界に釘付けにされる一撃だったに違いない。
これ以上『ロード・オブ・ザ・リング』に興味を持つと抜けられなくなりそうで不安なので、ぼくはもう旅を終えるつもりだ。そんな決心をしながらも、映画館の帰り際に『ロード・オブ・ザ・リング指輪物語」完全読本』(リン・カーター著/荒俣宏訳)を買ってしまったのだが…。

*1:たびたび言及してしまっているが、それだけ様々なことにリンクしていく鋭い考察が含まれているということだろう。