3月8日の日記

特筆することもなく過ぎていった1日だった。
前日からのバイトが徹夜のまま長引いて、ようやく昼の3時頃眠る。夜9時頃起床。
テレビで山暮らしの老夫婦のドキュメンタリーを放映していて、最後まで観てしまった。あの生命力には魅せられる。90歳を前後して老人ホームに入る決意をするが、何もしなくていいことが逆に痴呆への不安、娘たちに意図せぬ負担をかけてしまうことをよしとしない。そして再び山へ。夫はやがて前立腺ガンとなるが、それでも山に惹きつけられるのだった。
場所は山口県とテロップに出ていたけど、冬は粉雪がちらついていて寒さもかなり厳しいはずだ。それでも山で暮らそうとするのは、田舎で豊かな老後を…みたいな生やさしいものではなくて、命がけの苛酷な選択なのだ。そういう意味では、消費社会から「降りた」のは文字通りの消極的な意味ではなくて、また異なるシステムのうごめく他の現実に直面するということになる。消費社会では現実の流れについていけない老人は搾取され、飼い慣らされるだけなのだ。
いや、しかし老人だけの問題ではない、とやっぱりぼくは思う。老人ホームという温室で不安を感じていた老夫婦と同様、毎日毎日目先の生活をやりくりするのに精一杯でやりたいことのできない、もっとも、それがなんなのかはっきりしてさえいない状態で、若者もただ漠然とした不安に脅かされ続けるのだ。かといって、この老夫婦のように他の現実に直面する決心さえできないでいるのだ。…と思いながら番組を眺めていた。
西友で組立式のラックを買い、家の片づけをする。4月までには大がかりな片づけをしなきゃいけないと思っていても、なかなか進まず、今日も途中で発掘したマンガを読んだり、ゲームをしたり…。『ロード・オブ・ザ・リング』の余波で、PCエンジンの『ラングリッサー』を久しぶりにやり直したり、サターン版もついつい中古ショップで買ってしまったり…。結局、気づいたときには、やらなきゃいけないことはすべて後回しになっている。
ところで『ラングリッサー』シリーズはよくできた戦乱モノのファンタジー世界シミュレーションなのだが、シリーズ三作目ぐらいに戦闘シーンを大幅に変えてしまったことがあった。それまではミニチュアの安っぽい戦闘シーンだったのだが、それがテンポの良さと妙な味わいを出していて良かった。変更後の戦闘シーンはまるで『ロード・オブ・ザ・リング』のような大迫力の臨場感溢れる戦闘シーンなのだが、それゆえにゲームの流れから疎外されてしまって我慢できなかった(カット機能で戦闘シーンを除外してプレイしたと記憶する)。で、結局後のシリーズでは元の戦闘シーンに戻していたはずだ。『ラングリッサー4』を買ってみたのだが、どうやら『ラングリッサー』や『デア・ラングリッサー』の戦闘シーンに近い画面になっていたようだった。こういうのも「有形技術」と「無形技術」の差異を表す良い例である。