可愛いだけじゃない!

板橋のワーナー・マイカルに行く。ゲームで掻き回された頭をチューニングしなければ…。『イノセンス』のパンフレットを買おうと思ったら売り切れていた。ぼくは前々から楽しみにしていた『アップタウン・ガールズ』を観た。とにかくブリタニー・マーフィ目当てで。
ところがこの映画はかなり傑作だった。似たようなモチーフの最近の映画の中でも群を抜いていると思ったほどだ。
例えばリーズ・ウィザースプーン主演の『メラニーは行く!*1は、同じくニューヨークの華がゴージャスな生活の流動性から転落し、封印していた過去=田舎の素朴さへと遡行する、乱暴に行ったらそんな感じのラブコメとしてよくできていた。ラブコメに限らず、『アップタウン・ガールズ』などもある程度モチーフは共通していて、都会の表層空間をうまく生きていく主人公のアイデンティティ・クライシスとその回復みたいな話は枚挙に遑がない。
あるいは、『マッチスティック・メン』で主演したニコラス・ケイジは潔癖性の男だったが、別れた妻と娘の過去を封印していて、その遡行がやはり物語の中心となっていた。『アップタウン・ガールズ』では、天才子役ダコタ・ファニングが潔癖性の「大人子供」として登場し、ブリタニー・マーフィの演じる伝説的ロックスターの娘モリー・ガンとは対照的に描かれる。ただし、『マッチスティック・メン』の「潔癖性的なもの」は単に物語上のギミックとしてであったのに対して、『アップタウン・ガールズ』ではそれをある程度主題的に扱っているように思えた。
ニューヨークの高級住宅地アップタウンに生きる人々がそれぞれ描かれる本作では、登場人物がそれぞれ違った形で現実に適応している様子が描かれる。中心となるモリーブリタニー・マーフィ)は感覚的で衝動的で周囲を振り回す支離滅裂な少女的大人として描かれ、それと対をなすレイ(ダコタ・ファニング)は仕事人間の母と植物人間の父の娘であり、潔癖性で感情を表に出そうとしない大人子供として描かれている。ブリタニーの表情の多様さとダコタの表情の貧しさの対比が分かるような過剰気味の演出はなかなか楽しい。また、モリーの男親友ヒューイ、女親友のイングリットやモリーの一時的恋人だった新人ミュージシャンのニールの個性もうまく出している。
新人として売り出される前に、都会の表層空間に適応してゆくニールに両義的な感情を示すモリーの描写や、それに対して機械的な対応をするイングリットなど、この映画では登場人物の関係性がとても構築的になされている印象を受ける。例えば、モリーとの「いざこざのおかげ」で売れっ子ミュージシャンになったニールのミュージッククリップを見るモリーとヒューイの台詞は面白い。
モリーがそのクリップを見て「80年代みたい」と罵倒すると、ニールは「それがイカしてるのさ」みたいなことを言う。そして、音楽プロデュース関係の仕事をしているニールは、「あいつには実体がないが、それをプロデュースするおれには実体があるんだ」と言って、モリーに友情の誓いをたてるというくだりがある。女友達との友情を失いかけていたモリーはそれに励まされるのだが、すぐに後の場面で2人の間の微妙な違いは描かれる。ヒューイがこの映画の中で流動性に呑まれず一貫しているように見えるのは、その台詞に象徴される意識と絡んでいて、いわゆる業界人として描かれている。『フォーン・ブース』でコリン・ファレルが演じたような感じだ。しかし、ヒューイにはあえてそのポジションに留まっているような慎ましさがあって、コリン・ファレルの演じた男のような傲慢さはない。
モリーの女親友イングリットは安定した落ち着きある女性として描かれているのだが、モリーとの喧嘩をきっかけにその存在基盤の脆さをあからさまに露呈させる。イングリットは、いわば『AERA』的な病理を抱えた女なのだ。ヨガや料理教室などを開いて日々自分に磨きをかける彼女の熱心さも、現実への適応の一形態でしかない。そんな危うさを感じさせるマーリー・シェルトンはイングリット役としてうってつけだった。
そろそろ中心に戻そう。モリーブリタニー・マーフィ)とレイ(ダコタ・ファニング)。モリーは詐欺に遭ってすべての財産を失う。生活するためにひょんなきっかけからレイの子守役のアルバイトを始める。対照的な2人の間には喧嘩が絶えないという、いかにもありがちな筋である。けれども、映画の進行をじっくり見守っていると、とても奇妙な実感にとらわれる。何かすごく流されている感じなのだ。『アップタウン・ガールズ』を構成するのは数多くのエピソード群で、それが次々に息をつかせないほど迫ってくるという感じだ。そういえば、エピソードが移るときのカットの繋ぎ方、音楽の使い方は、狡猾にも場面転換を感じさせないような滑らかな移行となっていて、おそらくその「流され感」はぼんやり観ていると無意識に感じられる程度だと思う。だが、そういったリズムというのは現実にとても似ている。
グローバリズムという言葉で片づけるには粗雑すぎるかもしれないが、人々を焦らせる要因として、そのようなものの力は無視することができないだろう。『アップタウン・ガールズ』においても、レイが潔癖性を克服するコミカルな場面がある。なんと、モリーがレイに無理矢理ファースト・フード(ホットドッグ)を食べさせるのだ。それに対して吐き気を催すレイの姿は、グローバリズムへの両義的な態度と見えなくもない。レイはグローバリズム(=アップタウンという表層空間でのイケてる生活)を回避する手段として、心を閉ざし潔癖性を体現しているのである。その解離的な姿が、映画の結末の感動への伏線となっている。
ぼくがもっとも好きな場面は、植物人間となっていたレイの父親が死んでしまい、レイが失踪した後にやってくる。レイはかつてモリーと訪れた遊園地で「コーヒーカップ」に乗っているのだ。モリーは以前、自らの子供の時の話をする際、現実逃避に向かうとき遊園地の「コーヒーカップ」に乗ったエピソードを語った。それは唯一子供だけで乗ることができる乗り物だった。モリーはそれを思い出し、遊園地で「コーヒーカップ」に乗るレイを見つける。2人は無言で一緒に乗る。そして、ただひたすらハンドルを回す。この時カメラは真上から「コーヒーカップ」を映すのだけれど、まるで斎藤環の「ひきこもりシステム」のような図式的イメージがここに現れてしまう。一番下で回るプレート>その上で回るカップ>その中でハンドルを回し続ける2人。アップタウンの表層空間というシステムで回り続けた2人は吐き気を催すのだった。コーヒーカップを降りるということは、システムから降りるということなのだ。
ついつい冗長になってしまったが、まだまだ魅力的な場面がたくさんある。それは控えておくことにするけど、映画のラストで「物語の終わりと共に現実が始まる」というダコタ・ファニングによるモノローグが被されているのはいささかやりすぎのような気もするが、「降りた」後にこそ始まるという可能性を提示したのには好感がもてたし、方法としても成功しているんじゃないかとぼくは思った。『リクルート』や『ゴシカ』なども嫌いじゃないが、それらは結局グローバリズム的なものからは逃れられないよ、というのをリグレットと共に描き出すにとどまっているのだから…。かといって、『メラニーは行く!』みたいに田舎のナイーヴさがやっぱりいいよ、となっても首をひねらざるをえない。ブリタニーに関していえば、『8Mile』の方が魅力的だったが、『8Mile』はグローバリズム的なものの中でも自分を信じて生きろ、みたいな感じだったから、『アップタウン・ガールズ』はその地平から新たな可能性を引き出した傑作としても評価できるのである。

*1:ダコタ・ファニングはこっちの作品にも出演している。