孤独と愛と絶望

福永武彦『草の花』について。
バイトから戻ってきたので書き足し。先日知人と話していたときに、孤独の話になって、その人が一読を勧めてくれたのが『草の花』だった。ぼくは市山隆一の『私論・勝新太郎』(http://d.hatena.ne.jp/tido/20031227でちょっと触れた。)を思い出して勝新太郎の孤独について話をすると、『草の花』の孤独もそれと似ているという。さっそく読んでみた。
まず、この小説の構成の仕方が、孤独を書くということについて何らかの示唆しているように思われる。一人称「私」は肺病療養のためサナトリウムに入院している若者で、同室の汐見という同年代の若者に何か惹きつけられるものを感じている。汐見だけは重い病気を前に常に余裕の態度で生きているのだ。ある時、大きな手術を自ら進んで受け入れた汐見はあえなくそのまま死んでしまう。彼の残した2つの手帳。汐見は、死後それらを読んでくれと「私」に言い残していた。
夏目漱石の『こころ』のような小説の構成法は、実は『私論・勝新太郎』とも共通していて、あちらは勝新太郎の「語録」という形だたびたび言葉が挿入されるのだったが、市山隆一の場合、最初は「彼」という三人称で自分のことを書いていた。読み進めていく内に、勝新が死ぬくだりになって、市山隆一は作家として自分の名前を獲得する。そういうちょっと穿った構成になっていた。
『草の花』は、最初「私」と汐見、その他が生きている現実を汐見の死まで綴り、その後に2つの手帳の中身が順番に並べられる。1つ目の手帳は、汐見が18歳の時、学校の後輩の男にプラトン的な(すなわちイデア的な世界での)恋心を寄せたエピソードを綴っている。2つ目の手帳は、汐見が24歳の時、夭逝した件の後輩の妹に恋心を寄せたエピソードを綴っている。どちらも互いに思いは通じているのだが、汐見の純粋すぎる心に対して、相手は現実的というか普通の恋心にとどまっているため、結局悲劇的なまでに叶わぬ恋となってしまう。絶望した汐見はその後不運にも徴兵され、「私」と同じサナトリウムにいたというわけだ。
「私」は汐見の余裕にいつも疑問を感じていた。なぜ死を恐れないのか?手帳を読んだ「私」は、2つ目の手帳における汐見の相手の女性に手紙を出す。小説の構成では、それが2つの手帳の後に置かれている。「私」は汐見を決定的に理解することはない。少なくともそれは記されない。女性の手紙で小説は締めくくられるのだから。つまり、この小説ではそれぞれの登場人物が決定的に理解できないという孤独を、内容的にも形式的にも主題としているのだ。
最初に『私論・勝新太郎』との構成上の類似点を指摘したが、孤独を主題とする場合、手帳や語録といった媒介の役割というものが重要に思われる。決定的に理解できなくとも互いを分かろうとする希求心がよりいっそう孤独を引き立てる。残された手帳や語録を理解しようとする者は、去っていった者と自分との決定的な違いを受けとめざるをえないというわけだ。
ここからはぼくの勝手な思いだ。汐見は絶望に至るけれど、やがてサナトリウムに戻ってきたときは余裕のある人間になっている。勝新太郎は周知の通りいつだって余裕のある人間に見られていた。『草の花』は孤独についての小説だが、一方で愛についての小説でもある。汐見の手帳は延々と愛(コミュニケーション)の不可能性を証明したが、分かり合えない事実に対して沈黙したくない心情を吐露してもいた。その後、汐見が志向したプラトン的な愛は砕け散る。2つ目の手帳の女性はキリスト者だった。キリスト的な愛はまた別の愛だ。
「孤独とは、自分の到達したレベルで通じ合える人のいないことである」とはM・スコット・ペックの言葉であるが、到達したレベルとは愛(コミュニケーション)のあり方とも置き換えられるだろう。それを超克した者だけが余裕を持つ者となる。余裕とは愛の不可能性を受け入れ愛することなのである。だから、愛とは慎ましくささやかなものなのだ。
なぜこんなことを考えたかというと、まさしく『イノセンス』のバトーの愛もそんなもののように思えたからだった。バトーと飼い犬のバセットハウンドの徹底した日常描写は、ありのままを受け入れる慎ましい愛が通底しているのであり、もちろん素子への愛というのはそういった愛に違いないのだ。
ヴィンセント・ギャロの『ブラウン・バニー』もぼくにとってそういった愛を描いた映画だった。本当に慎ましく日常を淡々と綴っていく映像こそあの映画の素晴らしい部分で、ラストの感傷的な場面は味付け程度にすぎないとぼくは思うのだった。
せっかくの公開日に『イノセンス』を観に行けなかったのは悔しいので、無理矢理話題をくっつけてみたというのが本心である。