『花とアリス』

第一印象は蒼井優の印象が『1980』とは全然違うな…という驚きだった。あとで彼女にそれを告げたら『1980』は蒼井そらだよ、と信じられない発言をしてきたのでそっちの方が驚いたが…。しかもその理由は脱いでたから。
それはともかく。岩井俊二の新作として観ると『リリィ・シュシュのすべて』とはまったく違う味わいに仕上がっている。一言で言うとネタかベタか区別のつかない奇妙なコメディタッチの少女の青春モノ…とでも言えるだろうか。その前の予告編で行定勲の新作『きょうのできごと』と『世界の中心で、愛をさけぶ』の予告編をやっていて、紗のかかった映像をさんざん見せられたのでうんざりしかけていたのだが、おそらく岩井俊二の直系にあたる行定勲の新作はベタにやっていると思われるので、『花とアリス』の冒頭5分ほど観た辺りで見事にそんな印象が裏切られていって、失われかけていた興味が一気に取り戻せた。
そうなのだ。映像の色調や音楽を追っていると、ナイーヴな田舎少女の恋や友情の話なんじゃないかと思ってしまうけれど(事実そんな話ではあるが…)、花(鈴木杏)とアリス(蒼井優)に同じ学校の先輩宮本君(郭智博)を加えた三角関係のありさまは、ベタに展開していくことがない。バレエをやっている2人の少女のうち、アリスがやがて芸能プロダクションにスカウトされるとうのはベタな感じもするが、花は惚れた宮本先輩を追って落研に入り謀略の数々をめぐらせるのは現実にはありえないほどネタ的に展開してゆく。
登場人物たちは少女も少女の親も「キミ」と相手に呼びかける。それに象徴されるようにほとんどの人物が解離的なコミュニケーションをやっていて、その解離人格こそが通常になっているほど徹底的でもあり、前半はそのような徹底ぶりが笑いを誘う。アリスが芸能関係に絡み始めると、東京でのオーディションなどの様子が描かれ始め、おかしなコミュニケーションの水準はいわゆるギョーカイに回収され、アリスの方はナイーヴさをあからさまに露呈させる。蒼井優はまさにはまり役である。
一方で宮本君を騙して記憶喪失だと思いこませることで、自らを彼女だと錯覚させようとする花は、まったくナイーヴさを露呈させることなく、嘘で固められた現状を維持しようと次々に謀略を張り巡らせ、そのためには親友のアリスも犠牲にしさえする。その解離ぶりが見て取れる台詞はさすがに巧くて、図らずもみっともない本心ばかり露呈してしまうアリスの父親(平泉成)の台詞と対照的だ。アリスはそんな父親と微妙な関係で、おそらく妻と別れてたまにしかアリスと会うことのない父親は、娘とのデートでついつい口走ってしまう言葉のせいでアリスに「いやらしい」と嫌味を言われたりする。
そんなネタ的な物語が破綻しかけながらもぎりぎりの線で進行していくのだが、やはり破局はやってくる。花の謀略の数々はもう維持しきれないぐらいに臨界点を超えていて、それを修繕しようとする花のさらなる謀略も、謀略であるがゆえに破綻を加速させるのである。アリスは途中まで面白がって参加しているが、一枚のトランプの絵柄を見るところで臨界点に達してしまう。それは花とアリスと宮本君が海岸で遊んでいたときに偶然宮本君が見つけて保管していた、アリスにとっては家族の思い出となるトランプだった。この絵柄が物語のメタレベルにおいても象徴的なものになっている。そこに描かれた少女とウサギは、トランプの角度を変えると口づけする恰好になるのだ。このトランプの絵柄のズレ、少しだけずらせばキスする形になるという微妙なズレが、アリスの涙を誘うのだった。いろいろな意味が含まれている重層的な涙である。
アリスの涙は時間をそれほどおかず花の涙へと連結する。しかし、花はというと、アリスとの共通の知人から寓話的な物語を聞かされることで直接的には影響を受けるような描写なのだが、学校の文化祭で自分が落語を披露する直前になって帯を結んでくれている先輩に本心を打ち明けるショットは感動的だった。ここではネタ的な部分がすべて演壇に上がっているもうひとりの先輩(坂本真)に集約され、花は初めてベタな感情を吐露できるのだ。アリスに比べてほとんど生活が描かれない花は利重剛の『クロエ』に出てくるような花に囲まれた家に住んでいて、アリスの家が奔放な母親(相田翔子)のせいで散らかっているのとは逆で、まったく生活感に欠けているというのも気になったが、こういった些細な点で種田陽平の仕事は大きいのだろう。
岩井俊二の映像は生理的に受け付けない部分もあるのだが、一度呑まれてしまうと最後までどっぷり浸かってしまっているのに後から気づかされる。最後の方の蒼井優のバレエシーンは単純にきれいでそれまで散々ネタ的な展開を見せられていたからこそ、効果的に生きてくるのだし、岩井演出による見せ方はとにかく巧いんだと思う。この映画も傑作だと思う。