身体を離れて人形へ

東京都現代美術館の「球体関節人形展」に行ってきた。『イノセンス』公開記念に押井守監修で展示されているものだ。なんとなく行きたいなぐらいに思っていて、暇が見つからなくてうやむやになりそうだったのだが、昨日ちょっとした出来事があってバイトの後に無理してでも行くことに決めたのだ。
もともとビスクドールなどにそんなに興味もなく、単体で興味のある人形はあってもジャンルとして関心があったわけじゃない。だから、今回も『イノセンス』という付加価値がなかったらおそらく行かなかったと思う。もっとも、『イノセンス』が公開されなければこの展示自体がなかったわけだが。
「ちょっとした出来事」について触れておこう。いつものようにホテルのバイトをやっている時だった。最近、マネージャーの姉(およそ40代後半と思われる)と話す機会が多くて、4月から実家に帰るらしく、その際、ぼくがいつもやっている在宅バイト*1をやりたいというので斡旋してあげたりしていたのだ。で、なんで実家に帰るかという話になって、実は人形を作るのだという。この人はいつも病院に行っていたので何が悪いのだろうと思っていたらどうやら肺気胸だったらしく、昔人形作りのために無茶していたら身体を壊したということだった。人形作りを始めたきっかけは、天野可淡の人形に惚れ込んだからで、なんとすぐに弟子入りしたとのこと。「球体関節人形展」には天野可淡の作品も展示されている。
何人かの弟子のうち、あまり作品を作らない不肖の弟子だったと自分で言っていたけど、37歳で夭逝した師匠に可愛がられていたらしい。バイク事故で死んだ師の遺体は目も当てられないほどで、三浦悦子の人形のように継ぎ接ぎされていて、その日はずっと号泣した、と淡々と語ってくれた。
他の弟子すずきすずよさんの写真集を見せてもらったり、恋月姫の写真集*2を見せてもらったりした。なぜか山下達郎と友達らしく、そんな話も織り交ぜてくれたけど、今後は実家に引きこもって再び人形を作るという決意に並々ならぬものを感じた。人形を作ったら1体くれると約束してくれたので、ぼくもバイオリンケースに入れて人形を運ぶ夢を見たりしてみた。
そんなことがあって「球体関節人形展」に行くことにしたのだ。
すごかった。こんなにはまってしまうとは思わなかった。作風の異なる十数人の充実した展示がそれぞれ独自の空間を作っている。人形の占める場が異空間になっているのだ。ぼくが特に魅了されたのは山吉由利子の人形とやはり恋月姫の人形。山吉由利子の人形は首が切り離されていたり身体が箱や布に覆われていたりしていてまったく動きがないのだけれど、大きく正面を見つめる眼や床に敷き詰められた白黒のタイルや時計や機械や帽子といった意匠の力が時空間を跳躍する。どこか西洋の国の少女を象ったかのようであって、いつかの時代を反映しているかのようでもあるが、そんな空間と時間の制約を突き抜けるような存在の力が圧倒的なのだ。恋月姫の人形は他の人の展示人形よりも一回りも二回りも小さく、繊細で、そして危険なほど美しい。有機体のようなデザインの棺桶に葬られている幼女らしき人形はほんのり身体を色づかせ、わずかに服から乳首さえ覗かせているのは危険すぎる魅惑を放っている。何十万から百数十万円出してまで人形を買う心情が分からないではない気がした。他の人形にもそれぞれ見所があって、天野可淡の展示もタロットカードごとき世界がそこにある感じで素晴らしいものだった。
ぼく自身はだいたい自分の身体イメージに重ね合わせて人形を体験していた。それはエロマンガを読むときの姿勢に似ていて、欠損や裂傷や異形を受動的に、あるいはマゾヒスティックに体験することで恍惚を得ることができるのだ。しかし、それは自らの身体イメージを虚構の中で加工することで、身体という不自由な容器から少しでも自由になろうとする営みでもある。いやいや、人形は本当に恐ろしい。

*1:高校生の小論文の添削。

*2:その写真集には萩尾望都の文章も載っていて、『半神』の双子を想起させる双子の人形が魅惑的だった。