ひとつの契機

さっきトイレに入ったとき*1、なんとなく角川ソフィア文庫版の『共同幻想論』をめくっていたら、最後に付された中上健次の解説にこんな箇所があった。

性が対幻想として読まれ共同幻想に転移していくという見ようによっては十全にアジア的(農耕的)なこの書物の出現は歴史的に言えばほどなく起こる三島由紀夫の割腹自決と共に六〇年代から七〇年代初めにかけて最も大きな事件である。この事件を読み解くにはまったく新しい時間が要る事を読者は肝に銘じられたい。(政治的事象や社会的事象に発言したくはないが七〇年代に起こったすべての事象、全共闘から連合赤軍事件まで割腹とこの書物が創出する地平を超えるものはなく、ただ新たな事があるというのなら、それは風俗の新奇さのみであると認識している)

改めてこの本に向き合う動機が生まれた。何年前か『共同幻想論』を買って一応読みはしたがさっぱり理解できなかった気がする。すべて幻想なんだ…と分かった気になりさえせず、自分とは無縁の本だと片づけていたのかもしれない。それは吉本隆明という人自体に対してであって、ぼくは『なぜ、猫とつきあうのか』とか誰かとの対談とか簡単そうな評論ぐらいしか読んだことがない。しかし、吉本隆明について誰かが書いているものを読むと、読まなきゃいけないなといつも思わされる。今度こそ…。
もっともぼくの親はなぜか同じ名前をぼくに与えていて、たぶん意図しなかったとは思うけど(吉本隆明だけでなく吉本ばななも知らないような親なので)、年輩の世代の人の中にはぼくの名前を見て吉本隆明のことに引っかけてくる人がたまにいる。そんな時、気の利いた反応を返せないのがしゃくに障るというのもある。以前、ジュンク堂蓮實重彦にサインを貰ったときにも吉本隆明のことを引っかけられたのだった。

*1:ぼくはトイレの中に本棚ひとつ入れてあるのだ。衛生なんか気にしない。でも、以前バイトした葬儀屋のぽっとん(汲み取り式)便所で、便器の横にそのままマンガ本を置いていたのには引いてしまった。