遅れ…遅れて

http://d.hatena.ne.jp/tido/20040323
花と蛇』に触れて書いた日記の続きをようやく今(30日16時過ぎ)になって書こうと思う。
乱暴に言ってしまえば、小沼勝監督『花と蛇』には、フィクションの空間が成り立たず、フィクションの外側からに侵犯され続けるような意識が通底している、ということがあると思う。先日の日記でいくつか挙げた場面の他にも、片桐誠が遠山静子を調教し始めて愛を感じるようになった挙げ句、母に結婚を宣言する(「母さん、ぼく結婚する」)場面において、その台詞と同時に結婚式のBGMが流れるというくだりがあるのだが、カメラがズームアウトすると、そのBGMがラジオから偶然流れてきたものだったという「外し方」があったりする。また、片桐誠がオナニー処理のために使用していたティッシュを保管していると言ったが、やがてそれを燃やす場面があるのだが、その場面においても構図が引きになると、子供が不思議そうに片桐を見ているという「外し方」があったりする。
しかし、団鬼六原作、小沼勝監督、田中陽造脚本、谷ナオミ主演の第2作『生贄夫人』ではそのような「外し方」がまったく消失してしまう。行方不明になっていた国貞という男(坂本長利)が元妻(谷ナオミ)を山小屋に監禁して、みっちり調教してゆく中で愛が育まれるという感じなのだが、山小屋から逃亡を図る谷ナオミは結局逃げられず、山で心中を図っていた男女2人まで山小屋に監禁して調教されるという、完全な密室空間ができあがっている。この映画においては外側からの侵犯がまったくと言っていいほどないのだ。1974年ということを考えると、山小屋への籠城が連合赤軍事件を思わせないでもないが…。(あまり関係ないことかもしれないが、足立正生の『女学生ゲリラ』が1969年だったということは注目に値する。すでに連合赤軍的なモチーフを先取りしていたのだから。)
ともかく『花と蛇』に戻ろう。
映画の結末はどうだったか。公衆の面前で淫蕩に耽った2人は警察に連れていかれたのか、警察署から2人が出てくる場面に移行する。そこに迎えに来ているのは、片桐の母と静子の夫である。錯綜した4人の関係性が滑稽で興味深い。片桐の母は息子を目覚めさせ、家に連れて帰ろうとする。しかし、静子から離れたくない。母は置き去りにされ、遠山夫妻の乗る車に強引にも片桐誠も同乗し、遠山家へと向かう。追いすがる母の姿が車から遠ざかってゆく。遠山家。静子を挟んで肉欲に興じる男2人。そこに小間使いのハルが入ってきて。驚いたような表情で自らの「神」である静子を見つめ、静子はそれに構わず悦楽の表情を見せ続ける。場面切り替わって、遠山家の庭。静子とハル。静子の行為を咎めるようなハルに、静子は「あなたもやってみる?」と言うと、うつむきながらハルは「…ハイ」と答える。美しい花々に囲まれた中で微笑む静子は「オトコってカワイイわ」とつぶやくのだった。
ここで注目すべきは静子=谷ナオミが中心となった場面では外側からの侵犯がないということだ。調教され、調教を受け入れ、愛され、愛を受け入れ、「神」のごとく崇拝され、その崇拝も受け入れるというこの夫人の存在は、現実と虚構の境界そのものを消失させてしまう余裕がある。最後の庭の場面も、いかにも虚構的なファンタジー空間なのだが、この映画の中ではめずらしく虚構が成立してしまうのであって、映画もそこで終わるのだった。
こうして観てみると、次に『生贄夫人』のような映画が撮られるというのは予期できたのかもしれない、と思わせる。したがって、ロマンポルノ『花と蛇』は「宣言」のような映画でもあり、映画づくりが困難な状況に追い込まれた上で日活がロマンポルノ路線を選択したように、虚構性が成立し難い状況の中でそれに挑戦していこうとする小沼勝ら作り手の宣言と受け取れないこともないのである。
1988年にロマンポルノ最後の作品として、小沼勝が『箱の中の女2』という傑作を撮ったことを考えると、ますます『花と蛇』の登場が重要だったようにも思える。シリーズ一作目『箱の中の女』は、なぜかビデオで撮られていて、内容も極端に過激であったにもかかわらず、その続編で雪のペンションを舞台に、ある意味『生贄夫人』的な密室空間を成り立たせようとしていたという点がぼくには気にかかるのだった。しかし、そのような空間を成り立たせるという点において、谷ナオミという女優がいかに重要だったか、それをもっと考えてみようと思う。