骨太なデビュー作!

tido2004-03-29

銀座シネパトスの「崔洋一特集」一本目『十階のモスキート』を観る。内田裕也の企画・主演・脚本を崔洋一が演出。83年の監督デビュー作。ATG映画だ。
16mmフィルムの質感と大野克夫ゲーム音楽のような独特なBGM、手持ちカメラが街中を歩く内田裕也を一定の距離を保ちながら捉え続け、家電ショップのパソコン売場で品々を物色する姿を映している。すると突然ひとつのパソコンのディスプレイがスクリーンに映し出され、妙な文字列が打ち出されたかと思うと「十階のモスキート」という赤字がいくつも連なってゆく。
そんな冒頭だけでも十分刺激的な『十階のモスキート』を観るのは2回目だと思うが、昔なんとなく観たせいかほとんど記憶がなかった。たぶんキョンキョン主演の映画(ビデオ)にはまっていた時期(高校の初めの頃か…)に一緒に観たのだと思う。一言で言ってみれば1975年のシドニー・ルメット監督『狼たちの午後』と1993年のジョエル・シューマカー*1監督『フォーリング・ダウン』とを足して2で割り切れない感じ(?)の映画だ。
つまるところは、「キレる中年男」と「社会派」という要素が含まれているということなのだが、そうやって要約できる部分よりも、もっと不確定な部分の方が面白い映画である。例えば、内田裕也が演じる中年の警官は、20年も働いて巡査部長という地位に甘んじていて、少し前には離婚もしている。単調な仕事。単調な生活。警官たちの「朝礼」の場面などは『刑務所の中』を思わせないでもない描写があり、緊迫した描写にユーモアも漂わせてくれるのはデビュー作とはいえ崔洋一らしい。内田裕也はほとんど無表情、寡黙を貫き、夢遊病者のように殺風景な街(千葉のどこか)とアパートを往復する。この映画ではいくつかの場所が繰り返し反復されるのだが、何ら盛り上がりを見せるわけでもなく、ラストの「キレる」場面まで、ほとんど同じテンポの反復的な描写が続くのである。
しかし、ところどころ横山やすしビートたけしが出演していたりして、おまけの話術が織り込まれるので、反復的な日常に物語とは別の起伏が持ち込まれていて飽きさせない。宮下順子や風祭ゆきの出演もうれしいところ。内田裕也は『十階のモスキート』というタイトル通りに、アパートの十階に住み、しだいに募る苛立ちからなのか、数人の女を自室に連れ込んでレイプする。しかし、そのレイプシーンさえいたって反復的になされ、殺風景な暗がりの中、部屋の奥で光っているパソコンのディスプレイに映し出されたゲーム画面の単調な反復と重なっている。
なぜパソコンがあるかというと、出口のない単調な生活の中、内田裕也演じる警官の唯一の興味であったパソコンを、消費者金融で借金して買うからである。その「おもちゃ」を毎晩のようにいじる内田の姿は何ら感慨があるわけではなく、ただ単にキーボードをぎこちなく打ち、画面上で繰り返される単純なゲームを興味なさそうに眺めるだけである。
狼たちの午後』や『フォーリング・ダウン』とまったく違うのは、そういった単調な日常の反復描写こそが映画の大部分を占めてしまっているということである。それに、寡黙な内田裕也から怒りや社会的なメッセージが繰り出されることもない。だから本当は「社会派」の範疇に入れてしまうのは間違っている。ラストに「キレる」内田は、ハリー・キャラハンが警官バッチを投げ捨てたように、警官帽を投げ捨てた後、がむしゃらに走り、郵便局強盗をする。郵便局は包囲され、この辺りは『狼たちの午後』に似ていなくもない。もっとも、それを見た内田は力なく局内に戻って椅子に座っているところを押さえつけられてしまうのだった。
逮捕された後、自分の横にいた警官の胸から(一万円か五千円か千円か分からないが)札を抜き取りがぶりとそれに噛みつく場面がスローモーションとなり、一気にズームアウトしてエンドロール。白竜の唄が流れる。
内田裕也の娘役として、原宿で竹の子族をやっているキョンキョンの初々しい姿がおさめられているのは見物。当時の風俗を的確に反映しているのかどうかはぼくには分からないが、けっこう貪欲に取り入れているという印象は受ける。そういった風俗描写の場面以外は、殺風景な日常の反復が続くので、なんとなく印象的だった。音楽が独特なせいもあって、変な味わいのある作品だった。

*1:今、検索してみて『フォーリング・ダウン』がジョエル・シューマカー監督作品だったことに気づいた。つい最近の『フォーン・ブース』との関連を考えてみるのも面白いかもしれない。