見世物としての○○○

tido2004-08-25

つい4日前に板橋の映画館で封切られた『華氏911』を観て、本当ならすぐにでもこの日記に何か書いておくべきだったけど、連日のアテネオリンピックはそうすることを許してくれなかった。といっても、プチ愛国心を熱狂させるというわけではなくて、だらだらとテレビを付けっぱなしにしていたら何となく朝まで観てしまうという感じだった。野球の敗北と共にそんな惰性からは解放されたのだが、オリンピックが幕を閉じるまでは結局だらだらと観てしまうことになるだろう。
今朝は9時からバイトだった。暇な時間に携帯で新作映画をチェックしていると『新座頭市物語 折れた杖』が目に入った。浅草の名画座だ!初めて勝新の名作を観られるというわけだ!心を躍らせて、劇場に時間を問い合わせ、バイト終了後に急いで浅草に向かった。しかし…どうやら上映時間を聞き間違えていたらしく、『折れた杖』が始まってすでに30分ほど経っていた。むなしく映画館を後に…。明日朝一番で必ず行こう。
帰りがけに夕刊にロシアにてテロ疑惑の文字を見つけた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040825-00000045-mai-int
上野に立ち寄って「聚楽台」でハヤシオムを食べる。ここは、ちょっと前に「SPA!」の福田&坪内対談で取りあげられていた。高田馬場駅の前に「田吾作」という阪神ファンのための飲み屋がある。ぼくは横浜ファンなので利用することはないが、この店のランチタイムにはたまに行くことがある。オムハヤシが美味いのだ。「聚楽台」のハヤシオムを食べてその味を思い出した。
http://www.tetchan.net/tagosaku/
まとまりのないことをだらだら書いているようだ。『華氏911』について何か書こうとしたらとりとめがなくなってしまっている。最初、この映画を観ているとヤコペッティのモンド・ムービーを連想してしまった。例えば、映画中盤、とある田舎の警官がひとりぽつりと佇んで無駄な警備をしている場面がある。割りと早いテンポで進んでいくマイケル・ムーアのこの映画の語り口は、(ムーア自身を含めて)見世物を次々に展示していくような風情なのである。もちろん、ムーアが標的としたブッシュはその表情を中心に、あまりにも平凡でありながら合衆国大統領として権力を発動しているというギャップによって、そのもっともたる見世物として大いに笑わせてくれる。
柳下毅一郎著『興行師たちの映画史』を思い出しながら、マイケル・ムーアの様々な要素が詰め込まれたドキュメンタリーは興行師的な見世物映画に限りなく接近していると思わされたのだった。もちろん、この映画はテレビで言われているほど政治的な映画ではない。公開初日、恵比寿ガーデンシネマに早朝から並ぶ観客たちは、インタビューに答えている内容とは裏腹に見世物を観たい一心だったに違いない。確かに、映画後半は痛ましいシーンが連続する。母親たちの子供を失った叫びは油断すると心情を揺さぶられるほどに痛ましい。けれども、そういったシーンさえ見世物として心躍らせて消費する自分がいるのだ。他の人々がどうかは分からないが、ぼくはガムを噛みながらブッシュ支持を公言するブリトニー・スピアーズと子を失った母親ライラは映像の上で等価であると思う。
考えてみると『ボウリング・フォー・コロンバイン』の印象も似ていたような気がする。銃社会によって引き起こされた悲劇とチャールトン・ヘストンの臆病さは等価だった。しかし、問題はある。不安を煽った合衆国のメディアのマッチ・ポンプ的な振る舞いは次々に見世物をつくり出す。ブッシュらの演出した最低の見世物は、それらを反復したかのような映画=見世物も多く生みだした。マイケル・ムーアは映画の中でブッシュらの物語を西部劇やテレビドラマのパロディとして挿入して見せた。実際、あのような愚かな物語は本当にいくつもつくられてしまった。『華氏911』自体はそういった物語とは反対のものであろうが、それでもやはりある単純さに貫かれてしまっているのは確かだ。ブッシュの物語の欺瞞を明らかにしつつも、そうやって暴かれた真実さえ優れた物語とはなりえない事実。むしろ、そこで再び物語が生まれてしまうことが愚かさの原因なのかもしれない。それはドキュメンタリー=映画の構造に絡んでくる問題なのだ。
…そういえばひとつ説明しておくと、上の写真は中村うさぎである。『自分の顔が許せない!』という中村うさぎ石井政之の対談本を読んで、この人の見世物的な精神に思うところがあったのだ。石井政之トークショーには以前行ったことがあるが、今度この本の出版関連のトークショーみたいなのがあるらしいので、それを聞きに行ってから再び何か書こうと思う。すでにぼくの頭は明日の勝新でいっぱいなのだ!