座頭市の視点による映画

tido2004-08-26

久しぶりの早起き。もちろん浅草名画座にて『新座頭市物語 折れた杖』を観るためだ。昨日の失策を繰り返さないためにちょっと早めに浅草に向かった。

何がこの映画を歪めているのだろうか?確かに評判通り「座頭市シリーズ」としては構成は破綻している、と一見思える。脚本は犬塚稔だから「座頭市シリーズ」の最良の「匂い」はぷんぷん漂っているのに…いったい何が?
それはもちろん監督が勝新太郎であることに起因するに違いない。冒頭、音もなく背景も黒みのまま、キャスト・スタッフの名前が表示される「座頭市シリーズ」にしては異様な光景を目の当たりにした後、吊り橋でめくらの市と三味線弾きの老婆が邂逅する。よくある座頭市的な邂逅であり、そしてやはり予想通り老婆は死んでしまうのだが、通常はやくざ者に殺されるべきところが、ここでは不慮の事故で吊り橋の穴から落下してしまうのだった。目の前にいながら一瞬の出来事に何も為すすべのなかった市は、老婆の死に責任を感じたのか、老婆が訪れるつもりだった娘の元に代わりに行くことになる。
ここまでの話は多少違いはあれどいかにもな「座頭市物語」である。しかし、注目すべきは、老婆の事故に際して、老婆の必死の表情と吊り橋や川のアップらしきカットがめまぐるしく交錯する超現実的なモンタージュが挿入されることである。この一連のショットは座頭市の心中を語るがごとく、重要な場面で何度も反復される。果たして目の見えない市がどうしてあのようなイメージを…と思ってしまいそうだが、それは思い直さねばならない。なぜなら、座頭市は「見えている」からである。言い換えよう。座頭市はあのように見ているのだ。さらに『新座頭市物語 折れた杖』においては、そのような「座頭市の視点」とでも言うべき姿勢が一貫している。このことを考えると、ぼくは次のように言えると思うのだ。
すなわち『新座頭市物語 折れた杖』とは、座頭市勝新太郎の視点による映画である、と。
勝新に惚れ込んでから様々なエピソードや証言を読んだぼくにとって、この映画の視点というのはとても分かる気がする。もちろん、孤独の人であった勝新のすべてを理解できるとは思わない。けれども、この映画に勝新の生き様が強く反映されているのは確かだろう。
冒頭の老婆のショットを先ほど取りあげたが、この映画において、人物がまともに捉えられることは少ない。暖簾やすだれや障子や襖などの薄い膜が常に人物を覆い、その向こう側にいるはずの人物は常に見え隠れし続ける。それだけならば、構図主義の日本映画ではめずらしくないだろう。しかし、極端なクローズアップや浅いピントや緩やかに動き続けるカメラワークなどによっても、常に人物を断片的に捉える姿勢は一貫しているのだ。それに、音。「座頭市シリーズ」で音が重要視されることはたびたびあった。しかし、それは殺陣における対座頭市戦略としてもっぱら用いられていたにすぎない。『折れた杖』では、物語上の必然性もなしに音声が急に消失したり、音の遠近感が狂わされたりすることがあった。それらすべては構成の破綻、と言ってしまえばそれまでだ。だが、そういった各要素がこの映画の世界観に大きく寄与しているのも事実なのだ。そして、その世界観は先ほども言ったように座頭市勝新太郎の視点なのだ。
村のマイノリティとしての知的障害者の差別的な描写がまったく脈略なく挿入されたり、やくざ者たちに石を投げた子供が叩き殺されたりするのも、通常は「座頭市シリーズ」にあらざる描写なのだが、ここでは違和感なくフィルムの持続に貢献しているのである。
また、勝新による座頭市批判とでも言うべき部分も見られた。物語の主軸として、市は老婆の娘(大地喜和子が艶やかだった)を女郎宿から足抜きさせ、やくざ者たちからも助けることになる。けれども、その傍流として、女郎宿で働かされている若い娘とその弟のエピソードが語られ、しかも、彼らは市の物語と直接交わらないのだ。先ほど取りあげたようにその幼い弟はやくざ者に殴り殺され、姉は辛い境遇を背景にして、海を前に歩く美しいショットがある。「海」も「座頭市シリーズ」ではめずらしい。いくつかあるにはあるが、このような海の撮り方はなかったはずだ。座頭市は「業」の人だった。その「業」ゆえに様々な人と関わりあい、悲劇を背負うこととなる存在だった。しかし、この映画では、そのような「業」は肩すかしを食らったかのようにすり抜けてしまい、市と関係ないところである人は悪事を働き、ある人は無惨に殺されてしまう。
おそらく勝新という人間はそういった無力感さえ背負う人間だったに違いない。座頭市が穿たれた手の傷はその無力感だった。手を封じられても戦い、勝利する座頭市。ぼくにはその姿が勝新にしか見えなかった。いや、本当は『不知火検校』以降、だいたいどの映画を観ても勝新勝新でしかなかった。しかし、勝新太郎監督による『折れた杖』は主演作で隠蔽されていた「何か」さえも露呈してしまっている、そんな映画なのだ。
『顔役』はいつになったら観ることができるんだろうか?本当に待ち遠しい。でも、いつまでも待ち続けたい。どこかで上映してくれないかな…
浅草の街にも触れておこう。さすがは浅草である。ずっと探し回っていた勝新のCDも見つけることができた。ただ、浅草すべての店がすごいわけではなくて、いくつか入った店で聞くと「勝さんのものは廃盤だよ」みたいなことを言われた。結局、ぶらりと入った「ヨーロー堂」という店で数枚の勝新アルバムを見つけることができた。レジの横にはテツ&トモが店の人と一緒に映った写真が貼ってあった。どうも今日のバイトは身が入りそうにない。