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tido2004-04-08

増村保造の映画に安田道代主演の『セックスチェック 第二の性』というのがある。緒方券演じる元天才スプリンターがバスケット選手だった安田道代に才能を見出し、スプリンターとして二人三脚で育てるという話。ところが、彼女はスプリンターとして成長していくにつれて、しだいに性的に男性化してゆくのである。そのためセックスチェックで引っかかってしまう。一応、半陰陽インターセックス)という設定だったと思うが、リアリティは皆無で、女スプリンターにするためにコーチが施すのは性的な指南であった。
砂さんの新刊『サイバーポルノ』を読んでいて、その映画を思い出した。もっとも、『サイバーポルノ』の面白さはそれとは別種のものだ。件の映画は、スポーツを極めるということに付きまとう「性の削ぎ落とし」を戯画的にやっている印象があるけれども、『サイバーポルノ』の主人公=涼子は性自体を極めようとしていて、ひとつにその捩れが面白いんじゃないかと思った。ストイックな訓練は性的なものをある意味削ぎ落としてしまうが、例えば「新聞記者 涼子」においては、ストイックな訓練の対象そのものがアナルセックスである。そして、涼子自身によるレポートの言葉の過剰さ。スポーツ選手が性的抑圧→運動ならば、涼子はフェラチオ抑圧→性的運動だろう。もちろん、実際のアスリートがそうだというのではなくて、あくまで妄想的なレベルにおいて…。砂さんのマンガに時おり挿入される登場人物の講釈(ルーズソックスの「攻撃」と「防御」etc…)に代表される理性的なものと、非理性の過剰さ(例えば、描かれる女体)の捩れにただひたすらぼくは圧倒される。
SOX」や「サイボーグセックス」で描かれる外部としてのペニス。『フェミニズムセックスマシーン』でもアクセサリーとしてペニスを付けている女がいたけれど、今回の単行本はそれよりずっと過剰になっている。かつて『EROTICS』誌上で「SOX」を読んだことは、ぼくにとっての衝撃だったが、それは単に視覚的・物語的な面白さにとどまらなくて、自分の身体イメージにはね返ってくるからだった。「やっぱ女はデカチンポじゃないとダメですかねー。」「男は短小のがカッコイイけどね。」「アンタたち こんなモノつけてよく気が狂わないわね……」そういう言葉やグロテスクなほどに誇張された外部ペニスは、ぼく自身にとって内在化される感覚だ。それはたぶん、そういう読みをしてしまうようになったという、性や身体性表象の受容の問題に関係しているから、もしかしたら独断的な読みなのかもしれない。
ふたなりシーメール系のエロマンガの中で、ぼくが高校生ぐらいの時に圧倒的に共感した、しのざき嶺の『もう誰も愛せない』『ブルー・ヘヴン』シリーズの心理的なエロ、あるいは「ちんちん大王」こと魔北葵の『変態学園』『変態実験室』『変態大血戦』の遊戯的なエロなど(上連雀三平は『アナル・ジャスティス』など好きだけど、ツルッとしたペニス描写がちょっと…。似たような文脈で師走の翁の『精装追男姐』は途中まで素晴らしかったのに、最後の方がよくなかった。)に比べると、砂さんのマンガはカッコよくて批評的だと思うけれど、それでなおかつエロさを失っていないというのはとても魅力的である。