ダリル・ハンナが座頭市に…

tido2004-04-25

柳生十兵衛のイメージがなんとか…と囁かれたダリル・ハンナ座頭市のイメージにつながってゆくからと言って「盲目のオマージュ」なのではなくて、タランティーノによる露骨な数々のオマージュにとらわれることで盲目的になってしまうことが『キル・ビル』のもっともたる罠だった。
ぼく自身、『vol.1』は盲目的に熱狂してしまった。けれども『vol.2』はテンションが低めで、悲痛さや陰鬱さが強く影を落としていることもあって、オマージュ群に盲目的になってしまうことから自由に観ることができた。そして、『キル・ビル vol.2』は掛け値なしに傑作であった。
もちろん、パイ・メイのくだりなど、露骨なオマージュがないわけではないのだが、ダリル・ハンナのエル・ドライバーは措くとして、マイケル・マドセンのバド、デヴィッド・キャラダインのビル、そしてユマ・サーマンのザ・ブライドは挙って何かを失った存在として哀愁を漂わせる。『vol.1』のルーシー・リューには見られなかった、あらかじめ死を受け入れているかのようなイメージが付きまとうのだ。
タランティーノが引用している映画の多くが70年代のものであり、俳優の演じるキャラクター造型に70年代のイメージが関与していることも考えられる。死をあらかじめ受け入れているかのような風情は、おそらくそういった70年代の映画のイメージであり、「修羅」や「虚無」や「冥府魔道」という言葉で形容したくなる彼らの佇まいの源泉はその辺りにあるのだろう。
だが、究極的に70年代のイメージが合致すると思われるのは、「修羅雪姫」のごときルーシー・リューと終始素晴らしい演技のデビッド・キャラダインだけのように思われた。観ているぼくが悲痛さを感じるほどに悶絶を繰り返すユマ・サーマンや、死相をまといながらも金に欲望をかき立てて見せるマイケル・マドセンや、目玉をくり抜かれた痛みに激昂するダリル・ハンナは、「女囚さそり」が常にサイボーグ的だったのとは異なり、決定的な場面で、人間臭ささを漂わせながらじたばたし続ける。
だから、『キル・ビル』という映画において、『vol.1』をあからさまに虚構じみたネタとして楽しんでいると、この『vol.2』のネタに回収できない部分に戸惑わざるをえないのだ。しかし、もともと2部構成として意図されなかった本作を別々に分かつというのはやはり正確ではなく、こうして『vol.1』『vol.2』を通して観てみると、すでに『vol.1』にもオマージュから零れ落ちる「余剰」がいくつも思い出される。例えば、ユマ・サーマンが長い眠りから目覚めた時の悲痛な叫び。
そういうわけで、映画の結末が母子を結ぶあのような結果になったとしても違和感がない。オマージュ群によって構成された虚構的なネタとしての『キル・ビル』は、母子が眠りの前に観る『子連れ狼』のビデオと共に終わっていて、「修羅」でも「虚無」でも「冥府魔道」でもない「母」としてのユマ・サーマンは、70年代的な、彼こそ「修羅」であり「虚無」であり「冥府魔道」を生きているであろうビルを倒さなければならなかったのだ。
ケンシロウに北斗十字斬を穿たれたシンのように、ザ・ブライドに五点掌爆心拳を穿たれたビルが死ぬ前に与えられた時間に、こみ上げてくるものがないわけではないが、むしろ『vol.2』の「余剰」にこそシンクロしていたぼくは、翌朝バス・ルームの床に横たわって泣き叫ぶ、最愛の男を自ら殺して最愛の娘と生きることを選んだ女=母の姿にこそ感動してしまった。素晴らしい傑作!