消えたメル・ギブソン

ぼくがメル・ギブソンに熱狂していた中学生か高校生の時に『ブレイブ・ハート』が公開された。当時は、地元の貧困な上映事情のためにスクリーンでこそ観られなかったが、数ヵ月後にはLDを買って数え切れないほど観直した。ぼくが気に入ったのは、メル・ギブソン演じるウィリアム・ウォレスが仲間だったはずの貴族たちに裏切られる場面と、やがて捉えられた彼が処刑される場面だった。当時はなぜ面白いのか考えないままに、メル・ギブソンという俳優に魅了されていたのだが、今考えると、記憶にあるメル・ギブソン像というのは、まさに受難の表情に結実するのであり、『パッション』でキリスト自身が描かれたのは、彼自身が熱心なカトリック教徒ということだけではなく、役者としての受難から『顔のない天使』や『ブレイブ・ハート』の監督を経て、彼のフィルモグラフィ上の必然であるようにも思える。
もともと『マッドマックス』で妻と息子を殺された時の沈痛な面持ちを呈していて、『リーサル・ウェポン』における自殺志向の「鬱」刑事、最近でも(『身代金』と『パトリオット』は未見なのだが)『サイン』では、またもや妻が事故死するという受難に遭って、彼独自の沈痛さを際立たせていた。しかし、『マーヴェリック』や『ハート・オブ・ウーマン』を除けば、本来は沈痛さや暗さこそがメル・ギブソン的な持ち味であるにもかかわらず、『パッション』では物理的な条件からなのかキリストを演じないというのは寂しいことである。
実際、『パッション』の冒頭では、ジム・カヴィーゼルが沈痛で暗いキリストを体現しており、まさにメル・ギブソンの刻印がなされていた。たび重なる暴行や鞭打ちに耐え続ける場面には、『ブレイブ・ハート』でなされたように一種幻想的な女(あるいは母)の姿が見え隠れして、陰惨な場面をかなり和らげるような演出をしている。だから、死人が出たということを取り上げたりして、ひたすらスキャンダラスな側面を強調している宣伝とは裏腹に、『パッション』からはそれほど陰惨な印象を受けない。
かつてぼくはバプテスト系の教会に不純な動機から、というより成り行きで(よく大学で見かける勧誘)1年ほど通ったことがあり、洗礼を受けなければならない流れになったところできっぱり行くのをやめたのだが、そこで知り合った韓国人の女性に先日大学で会った。その際に(まだ封切られてなかった)『パッション』の話もしたのだが、彼女は陰惨でも真実だからこそ目を背けてはならないということを言っていた。それを思い出しながら『パッション』を眺めていると、どうもドラマティックな展開にし過ぎていて、実際には目を背けさせている印象をぬぐえなかった。というのも、陰惨な鞭打ちの場面においても、十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩かされる場面においても、何度も何度も回想シーンが挿入され、弟子たちや母とのつながりが描かれ、即物的な受難を、感情的に揺さぶろうとするスペクタクルに仕立て上げているのだ。
しかし、単館系のささやかな上映ならばまだしも、シネコンなどで大々的に上映され商業的な文脈に乗せられてしまっている以上、このようなドラマティックな見せ方は必然だったのかもしれない。それにもともとメル・ギブソンの演出の資質はそういったところにあるのだ。彼が沈痛な面持ちをスクリーンに呈さない以上は、『パッション』はキリストを題材にしているとはいえ、ドラマティックな見世物にすぎないのだ。
キリスト教ではない者がこの映画を観て心打たれて入信するとは思えない。ぼくが観に行った板橋のシネコンでは、レイトショーだというのに満員で、この日の全チケットがsold outになっていた。同様にsold outだったのは『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』のみだ。ぼくを含めて多くの人は話題の見世物を観に行ったのだ。捉えられたキリストを罵ろうと広場に集まった人々のように『パッション』は受容されているに違いない。パゾリーニの『奇跡の丘』の足元にも及ばない衝撃では、神の子イエスを描いたことにならないだろう。さらには、ドラマティックな展開がイエスの死で中断され、結末のささやかな復活場面が取ってつけたように描かれているが、聖書という原典がなければちぐはぐな印象を免れない、あの場面に何ら映画的衝撃など生じようはずがない。むしろ『奇跡の丘』の超然とした禿げ頭のキリストこそ、映画的には衝撃であり、静寂の中に狂気の影が見え隠れする。それが奇跡的なのだ。
『パッション』はもともと熱狂的なカトリック教徒の心情を鼓舞するものではあるかもしれないが、そんな「情熱」はぼくには何の役にも立たない。メル・ギブソンに望んだのは、あの沈痛で暗い受難の面持ちであり、彼自身の最大限の存在感こそ映画に刻んで欲しかったということである。