生き残った者の「あとかたづけ」

夜、レイトショーに行く。行定勲監督『世界の中心で、愛をさけぶ』。板橋のシネコンに行ったのだが、この映画を目的にやって来たカップル群と『パッション』の行列で、フロア中が人だらけだった。一番大きい劇場だったにもかかわらずほぼ満員。驚くべきダブルミリオンの小説パワー。
なかなか良かったと思う。ぼくは読んでないが、原作を大きく変えている部分もあったりするらしい。やはり行定勲らしいというか、現在を生きる者の共同性として、ウォークマンから聴く死者の声が使われているというのが面白い。行定勲は同じことはやりたくないという主義なので、本人も言っているように、死んだ女といえば『ひまわり』ですでにやっていることだ。パンフレットでは、死んだ女の記憶から逃れられない男の「その先の物語」を描くことで繰り返しにはならないと判断したとあるが、実は死んだ女の「声」の方が新しいテーマとして重要なのではないか。
そういえば、冒頭の方でいきなり柴崎コウがテープの声に涙を流す場面があって唐突な印象を受けるが、実は「声」そのものが作用するのではなくて、「声」を媒介して彼女自身の記憶が回復されたのだろう(と後で分かる)。「声」導かれて、その主と自分自身の生まれ故郷に導かれる彼女を、宮藤官九郎の店のテレビ画面に見つける大沢たかおは、やはりテレビというメディアに媒介されて、記憶を解き放たれる。その直前に携帯電話で彼女に連絡を取ろうとしていた彼は、テレビ画面で携帯を取り出す彼女の姿を見てあわてて通信を止めてしまうわけだが、テレビを媒介して彼女と接触した彼にとって、携帯電話同士の通話はおそらく近すぎるのだろう。思い出せば、さらにその前には、彼女の置手紙を読んだばかりだったのだった。
そう考えれば、映画の冒頭で結婚前であることが暗示されていた柴崎コウ大沢たかおカップルは、彼女が死者の声を聴いてしまったことで、死者に導かれるかのように故郷の高松(四国=死国なのか?)に向かうと共に、置手紙を見てそわそわして挙句にテレビの画面で彼女の姿を確認した彼もまた死者の記憶に導かれると整理することができる。この映画の中心は、青春時代の回想の方なのだが、むしろ配分的には少ない現在の方が複雑に距離の物語を展開するのである。死者の声によって記憶の共同性を回復した2人は、再び、ではなく、ようやく現在を行き始めることができるのだ。
ぼくにとっては、ラストのオーストラリアの場面はどうでも良かった。廃墟のような故郷の現在など、ほんとうに死者の場所のようであったし、それと対になる回想シーンの瑞々しさも美しかった。おそらく、それほど泣ける映画ではないと思う。涙の洪水を誘うようなケレン味のある演出は回避され、涙腺を刺激しつつもぎりぎりのところで物語を展開させて行くような感じなのだ。『永遠の語らい』に比べると見劣りするのは仕方ないが、それでもなかなかの傑作だったのではないだろうか。さて、『北の零年』はどうなることやら…