ロックなんかろくに知らなくてもロックを叫びたくなる

実は今夜『スクール・オブ・ロック』の冒頭でライブハウスの壁に出現するクレジットにリチャード・リンクレイターの名を見るまで、ぼくはこの映画の監督を知らなかったことに気付いた。それになんとなく『コールド・マウンテン』か『CASSHARN』あたりを観ようと思って映画館に向かったら、諸事情で遅くなってしまってレイトショーの一番最後にやっていた『スクール・オブ・ロック』を観る羽目になってしまった…そんな感じの消極的選択で観た映画が、これほど素晴らしい傑作だろうとは誰が予期しようか。いや、ちょっとでも他人の日記や映画系サイトを巡回していたりしていたら事前に分かっていただろうが、たまたまそれをしなかったことが偶然の興奮を招いてくれたことに感謝するべきだろう。
『ウェイキング・ライフ』や『テープ』を作ったあのリンクレイターが『スクール・オブ・ロック』を監督しているということだけで十分当惑してしまうのだが、実際この映画は異常であり、中でも主演のジャック・ブラックの過剰なる本気は度を越しており、映画自体をそのロック魂で破壊しかねないほどだ。しかし、映画の方でもぎりぎりその過剰さをねじ伏せているというか、本気で格闘していて、両者ともに最高レベルでがっちり組み合っているのである。もう、それは、とてつもなく感動的だ。この映画の感動は、例えば職人的な巧さで作られたように見える『8Mile』とは違って、ただひたすら剥き出しになっている本気(「ロック」とも「怒り」とも、あるいは「無垢」とも言えるかもしれない)によるものなのだ。
仮にリンクレイター的と呼べるものがあるかのかと考えた場合、『ウェイキング・ライフ』にも『テープ』にも「メディア性」が強く意識されているようで、形式と内容が互いに干渉し合いながら独特の映画を作り上げてしまうとでも言える特徴が指摘できる。そして、それは『スクール・オブ・ロック』においても例外ではない、とぼくは思う。この映画の場合は、媒体となるメディアは当然「ロック」なのである。『ウェイキング・ライフ』におけるトリップ感を引き起こすような奇妙な形式上のイメージや、『テープ』におけるモーテルの一室という限定された空間(さらには手持ちのDVかつ緊密な編集、あるいは録音されたテープ)などは、あらゆる内容を左右するものとして存在し、物語に働きかけ続ける力のようなものとなっている。
スクール・オブ・ロック』では一見、ジャック・ブラックがそのような力ある存在となっているようにも思えるし、大部分はその通りだが、やはり媒体はロックである他ない。それぞれの子供たちが何らかの困難に突き当たり、それをジャック・ブラックが立ち直らせる時、一度は「負け犬」と認めて自分を投げてしまうジャック・ブラックが教え子たちに迎えられて立ち直る時、気弱な元パンク男のネッド*1がうきうきしてバトルを観に行く時、名門学校の女校長がスティーヴィー・ニックスの曲にわれを忘れる時…すべての人々はしっかりとキャラを描き分けられ、抜かりなく、時には過剰に演じられているにもかかわらず、そういった時になって「感情の微分化」はいっさい行われない。あっという間に、飛躍的に難局を突破する。バトルに向かうバスの中で、みんなを騙したことを謝ろうとするジャック・ブラックに対してひとりの生徒が口にしたように「そんなことをしている時間はない」のだ。この映画が本気=ロックたるためには、日和見主義的にセンチメンタルな描写をする必要などなかった。そんなもの吐き捨ててしまえ!
だからといって、人間がしっかり描けていないわけはなく、むしろ人間の方が本気=ロックになろうとしているのだ。つまり、いくら人間が過剰に暴走しようと、それはロックに向かってゆく運動そのものである限り、映画は砕けることなく、ロックを扱った映画ではなく、ロック=映画としてここに結実したのだ。これほど素晴らしい傑作を絶賛しすぎるに越したことはない。

*1:彼を演じるマイク・ホワイトは脚本も担当している。