穏やかなる情念は迸らなかった…

夜勤明け。大学に行った帰りに池袋で『死に花』を観る。
前半はなかなか良かったけど、後半は良いと思わなかった。『ジョゼと虎と魚たち』の監督とは思えない体たらく*1だと思ったのだ。
前半、あらゆる面で行き届いた快適な老人ホームがいきなり登場し、そこにひとりの若い女星野真里)が就職する。老人ホームでは99歳の「白寿」となった青木さん(森繁久彌)を祝う記念パーティーが開かれている。おそらく、この映画に登場するようなあらゆる面で快適な老人ホームというのは現実にも存在しているだろう。ただし、映画でも多少言及されているように、膨大な維持費がかかるゆえに、入居料も高額となるはずだ。
物語の中心に位置する仲の良い老人グループ5人。彼らの中のひとりである源田(藤岡琢也)は他の4人と共に日々を楽しみつつも、どこか憂いを帯びた穏やかさを漂わせていて、やがて彼が死んだ時、葬式の自己プロデュースという形でみんなの度肝を抜く。黒服を着込んだ葬式プロデュース集団が、老人ホーム内に設置された葬儀の会場に颯爽と現れ、合図と共に、壇上に生前の源田の映像が流れ、飲み会の始まりを促す。さらに、源田の学生時代の仲間がジャズの生演奏を繰り広げ、ダンスパーティーが始まる。壇上の源田のバストサイズの映像は、その雰囲気に酔いしれるかのように気持ちよくリズムを合わせている。
そういう穏やかな葬式も、源田の最期の言葉と共に終わり、老人ホーム内の火葬場に棺桶が搬入される。焼き終わるのを待っているみんなのところに火葬場の職員が慌てて駆けて来る。なんと、焼き終わった棺桶からは2人分の骨が出てきたのだった。これは、伏線も張られているので観ていると簡単に分かることなのだが、源田の恋人も睡眠薬を飲んで一緒に焼かれたのだった。老人の「心中」には静かなる情念が宿っていた。そして、それがこの映画の一番の見所でもあった。
生前の源田と最も親しかった菊島(山崎努)は、源田から「遺品」を預っていた。「死に花」と題された銀行強盗の計画書である。そこからは老人たちの一大発起、「死ぬ前のひと花」を咲かせようとする奮闘が綴られるのだが、小さなエピソードを散りばめ凝った展開にしようとしているものの、ありきたりで単調な展開からは自由でなく、拙いCGを使った大スペクタクルまで披露される。まったく、恐れ入る「老人力」だ。まるで老人たちは童心に返ったかのように、実際に、菊島は緩慢な痴呆症の進行と共に、戦中の子供時代の記憶を甦らせ、それがセンチメンタルな演出によって彩られる。ラストは「子供がえり」*2を果たす菊島とそれを見守る老人たちの美しい眺めである。
さらに、「計画」を進める老人たちは、やがて「戦争の記憶」そのものに直面することとなる。東京の地層に埋まっていた「戦争の記憶」は、冒頭で99歳を迎えていた、半ば白痴に近い様子であった青木さんの失われていた記憶だった、と後日談的に最後に語られる。また、冒頭で登場する星野真里はかなり映画の中で比重を与えられていて、男言葉を使う妙な役柄を演じている。途中、ヘルメットを被ったバイク男と恋仲であるような描かれ方をしているものの、何らかのエピソードがあったのか、喧嘩別れしてしまい、彼女自身、老人たちのグループに魅せられる。「老人って、すっげーな」というわけである。だが、彼女自身がなぜ若い男よりも老人たちに引き寄せられるのかまったく描かれず、妙な演技も手伝って浮いた印象しか与えられない。観客サービスのためか水着姿も披露される。
…と違和感を散漫に書いてみたが、ぼくが面白くないと思った一番の理由は、前半で藤岡琢也がすばらしい「穏やかなる情念」を見せたのに、それへの連鎖反応がまったく描かれていないということだ。登場人物たちはしきりに「源田さん(藤岡琢也)」の意志を口にするにもかかわらず、後に生きるものは日本の政治家よろしく無責任な子供がえりをエスカレートさせていくだけなのだ。そして、その純真無垢な子供がえりが、ラストの菊島の痴呆に結実してゆく。ぼくは、藤岡琢也の「穏やかなる情念」にこそ、『ジョゼと虎と魚たち』の通低音を聴いていたのだが…。菊島を演じた山崎努崔洋一監督『刑務所の中』のような演技でおかしみを見せつつ、源田の「穏やかなる情念」を受けて、その思いを胸に秘め、やがて懇意になる明日香(松原智恵子)と温泉旅行に行く。その辺りまでは「通低音」は鳴り響いていたのだが、源田の計画が明日香の手によって他の3人の老人に知らされると同時に、映画の音色は子供がえりの道に直進する。みんなに源田の計画が知れたと分かったときの山崎努の複雑な表情…まさにぼくのこの映画に対する気持ちはそのようなものだったのである。
老人たちの未成熟…それがこの国の現実なのだ。いや、映画にそれを投影してはいけないと思うが、もしこれが老人たちの気持ちを慰撫する映画として作られていたのだったら、それはそれでいいかもしれない。しかし、星野真里のあり方に象徴されるように、明らかに老人を暖かく見守る眼差しが強要されている。そんなヒューマニズムなんぞいらない。彼らが大スペクタル犯罪に加担したからという意味からではなく、老人たちの子供がえりを肯定する立場に与した反動的な映画なのだ。

*1:この言葉は石原慎太郎みたいだ。まさか都知事も未納だったとは…。

*2:そういえば、犬童一心塩田明彦監督作『黄泉がえり』の脚本にも参加している。