「物語ること」に生きること

先週に続いて今週も休講だった。昨年も一昨年も、同じ枠で同じ先生の講義をとっていたけど毎年3分の2ぐらいが休講になる。詳しくは知らないが持病のためだ。だから、もしほとんど出席していなくても、せっかく大学に行った時に限って先生の方が休んでいたと強く訴えれば単位はもらえる。しかし、せっかく何らかの役に立つことを学ぼうと早起きしていって、予習までして万全の状態だというのに、拍子抜けである。すぐに大学を後にして『ビッグ・フィッシュ』を観に行った。
前半を観ていてそれほど良いとは思わなかったが、後半になると面白くなった。『死に花』の逆だ。どういうことか?
ティム・バートンの最新監督作『ビッグ・フィッシュ』。父エドワードと息子ウィルの関係*1以来音信不通状態になってしまうウィルの結婚式での父の振る舞いのエピソードから描かれる。父はスピーチで長年披露し続けていた作り話を得意げに話した。息子の目に映る父の姿は「おれが主役だ」といわんばかりだったのか、式はおそらく円満に終わりつつも息子は納得がいかない。2人は音信不通になり、息子は母を介して父の様子を知ってはいたが、遠隔の地でフランス系の妻と円満な生活を送って…やがて父の病気が悪化しているという連絡を受け、父子は再会することになるのだった。
映画は3つの位相が交錯する。現在、過去、(父の)物語。前半では、父に再開した息子が、弱り果てても作り話しか語ろうとしない父を前に、未だ理解し得ない父に聞かされた物語を断片的に回想する。また、妻ジョセフィーンもエドワードの物語を聞かされるのだが、彼女の場合は夫ウィルと違って、作り話をロマンティックに受け取っているというふうに描かれる。
作り話はしだいに父の半生を結んで行くものの、物語の中の若き父は虚飾に満ちていて、また荒唐無稽な出来事の数々がその物語を彩っている。次第に死を迎えつつある現実の父を目の前に、ウィルはそんな虚飾に満ちた物語を受け入れることができず、ありのままの父の姿を知ろうとして父に対話を望むのだが、父は頑なに物語しか話そうとしない。後半は、父子の間に母サンドラや父がかつて関わった女性が媒介する。母は、父の「歴史」が詰まった倉庫の整理を息子に任せ、ウィルはやがて自ら父の物語の真偽を確かめようとひとりの女性を訪ねる。
女性は若き父との物語をウィルに聞かせる。家にいないことが多かった若き父は浮気の一つや二つしていたんだろうと予期していたウィルは、父のまっすぐな一面を聞かされ、父への思いに変化が兆したかのように見えるが、それはあまり重要なことではない。ここでは、その女性の物語自体も、父の作り話と同じ水準で描かれているということが重要である。いや、もっと平たく言えば、父エドワードの話す物語が至るところで挿入されているのだが、実際にはその物語を受容した人が異なる場合でさえも、ひとつの位相の物語として展開される。だから、父の物語の水準では、黒沢明の『羅生門』のような矛盾が起こらない。つまり、ウィルを除く主要な登場人物たちは父の作り話=物語に加担しているのである。
そして感動的な父の臨終の場面では、ありのままの父を知ろうとしていた息子でさえも、その作り話=物語に自ら加担する。その直前の場面では、老医師ベネットによって、作り話でないありのままの話をひとつ聞かされたばかりだったが、死を前にしてまで作り話=物語を続けようとする父の口を次ぐ。
なぜこの映画で父エドワードは脅迫的なまでに語ろうとするのだろうか?父は会話のきっかけを得ると同時に「…といえば」と自らの物語を始めるのである。逆に、幼い頃はそんな話を楽しんでいた息子ウィルは、いつからなのか現実主義者になっていて父の話を聞き流す余裕すら無くしてしまっている。2人は決定的に断絶している。だが、よくよく考えてみると、この映画では昨今おなじみの構図*2を用いているように見える。例えば、『アバウト・シュミット』。ジャック・ニコルソン演じるシュミットは定年までいわば自分の物語を生きていたわけで、物語を失うと共に彼は自分を見失ってしまう。だから、彼の旅の果てにおいてアメリカの建国の物語がナレーションで語られたりするのだろう。
ビッグ・フィッシュ』では、現実に生きる息子ウィルの方が疎外されているように描かれる。冒頭の結婚式のエピソードなどは、彼の被害妄想が過ぎるように思えなくもない。父エドワードこそ、みなに、特に妻に愛される存在だ。物語を失っているのはウィルなのだ。もちろん、最初から物語に生きていないような究極の現実主義者ならば、「物語を失う」というネガティブな表現は当てはまらないが、ウィルの場合はある年齢まで父の物語を信じていた。が、いつの間にか物語を信じなくなってしまった。それどころか反発さえ感じるほどになっていた。その原因は劇中示されないが、映画(あるいは原作小説)の外の現実を反映しているのは疑いない。
ティム・バートンは周到にも、父の物語パートにおいてCGを多用しているにもかかわらず、物語の添え物に過ぎない水準に留めている。その物語はどれも空想的ではあるけれど、語り口の歩調はCGに乱されない。例えば、若きサンドラが窓を開け放った時に一面に咲く水仙の花。心地の良い飛躍が極めてまともになされていて、下手な細部の微分化が行われていない。父の臨終に際して、息子が物語に加担する場面の感動とは、父の物語を理解し、同じ語り口で物語を完結させたからに他ならない。もちろん、映像として語られる物語はすべて同じ水準に統一されるのだから、リズムは乱れるはずがないのだが…。
物語の肯定はあらゆる映画の肯定には直結しない。『ビッグ・フィッシュ』が肯定するのは、現実を反映した物語だった。父の作り話=物語はまったくの嘘ではなく、ある意味「真実」だった。だからこそ、それを悟った息子が最後に完成させた物語の結末は、映画の結末で描かれる葬儀の場面と大きく違っていなかった。そのような物語=映画を肯定するひたむきさにおいて、ぼくはこの映画に共感したのである。

*1:この一家のファミリーネームはブルームだが、『ユリシーズ』とはおそらく関係ないだろう。

*2:これはもちろん良い意味で。