仮面、SM、犯罪、少年愛、同性愛

上記のようなモチーフ群が容易に浮かび上がってくる『仮面の誘惑』という映画は、明白に「三島由紀夫」を想起させる。無論、パゾリーニの名を引用した『狂った舞踏会』においても三島の影はありありと見出せたし、ぼくが感じた「近代文学的な」印象も佐藤寿保という監督の三島由紀夫への固執を裏付ける要素のひとつと数えられるかもしれない。
もっとも、この映画では三島由紀夫そのものよりも、『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』などのポピュラーな三島作品のモチーフが断片的に結合させられているにすぎないという印象も強く、またそこからはみ出すイメージも充溢しているだろう。雪原のレイプだとか取調室での尋問と回想だとかは、先日観た若松孝二の『情事の履歴書』を思い出させるようなものである。
また延々と反復される「女の血潮」は、白いキャンバス(雪原だったりナプキンだったり下着だったり…)に鮮烈に刻み付けられ、その血に官能的な恍惚を見せる「青年」*1は、その血に魅せられながら、しだいに自らのジェンダーを危うくさせていくのだった。
その危うさはやがて義理の兄とのSMプレイと真夜中の放火という行動につながり、最後はその兄が海外から不法に持ち込んだ拳銃の発砲という犯罪に帰結する。その直前には、SMプレイの際に、兄によって拳銃の銃身を肛門に差し込まれていたのであり、刑事が疑問に思う空だったはずの銃弾はその時に比喩的に装填されていたのだと考えられるわけである。青年の姉は「わたしが弾を入れた」と言い、刑事はそれを信じることができない。姉は自らが象徴的な意味合いで青年に「弾を込めた」ということを知っていたのだろう。女の血潮を媒介して…
白い家ばかりを狙って放火する青年は、もちろん白いキャンバスの血潮のイメージを反復しているのである。青年を尋問して真相を知ってゆく刑事は、単なる説話機能を担う装置に甘んじることなく、自分自身も少年愛=同性愛、その対象の喪失というトラウマティックな体験を抱えていて、尋問による青年の回想と共に、刑事の回想シーンも断片的に挿入される。ラストは悲劇的な青年の死によって飾られるが、これは2人の悲劇的な回想が飽和していく過程を観るに連れて、因果関係としては突飛な印象を受けるにもかかわらず、不可視の「闇」が自殺を呼び起こす場面に違和感は感じなかった。青年の返り血を浴びた刑事の顔。切り替わるエゴン・シーレの絵。イメージの連鎖。

*1:個人的な印象では、少年に近くもあるが、どちらかというと青年に近い。これは『フェティスト 熱い吐息』の主人公の予備校生にも通じる。