圧倒的な、慎ましさ

『インデペンンデンス・デイ』は非常に思い出深い映画だった。初めて自腹を切って観た劇場映画だったから…。地元にろくに映画館がなく、劇場に運ぶまでに1時間半以上かかり、かつ往復1000円以上の電車代をはたかねばならないのは中学生そこそこには痛すぎた。それにぼくは高校2年になるまで月極の小遣いを貰ったことがなく、臨時収入だけでやりくりしなければならなかった。
というわけで、その時の鮮烈な体験は今でも脳裏に刻まれているのだが、そもそも『ユニバーサル・ソルジャー』にしたってラストの「ミンチ」の印象と共に何度も観返すほど好きな映画だし、『GODZILLA』こそ実は観ていないのだけれど、ローランド・エメリッヒという監督にはそこそこの思い入れがあると言っても過言ではない。
満を持して『デイ・アフター・トゥモロー』に取り掛かろう。これは間違いなく傑作だ。今回も、エメリッヒ特有の自己破壊志向が思う存分に発揮され、LAは激しい竜巻によって粉々に粉砕され、NYは洪水と吹雪に埋もれ、東京(千代田区だったか?)は頭部大ほどの雹の雨に襲われる。
しかし、今回は細部においても徹底的だ。ハリウッドの看板の破壊、ニューヨーク公立図書館での書物の焼却など。ニューヨークでわずかに生存する者たちは、図書館に立てこもり運を天に任せるしかない。少しでも暖を取るために、人類の知恵の集積は燃料と化すのである。一方で、ニーチェグーテンベルクの聖書が老人によって守られたりする描写もある。
もっとも、この映画においては圧倒的な破壊描写よりも、全体を貫いている慎ましさが重要だ。例えば、政府中枢の議論において攻撃的・前進的な態度よりも、受容的・妥協的な態度が結果的に勝るという点、あるいは全篇を貫く映画から弱者へのまなざしということが挙げられる。映画の冒頭でも、主人公となるデニス・クエイド演じる古気象学者と政治家の議論において、政治家が、環境問題もいいがそんな先のことよりも「京都議定書」による経済的なツケはどうするんだ!という主張を振りかざすわけだが、映画の結末において(以下、ネ・タ・バ・レ)、自国の北半分が氷河期並の寒波に覆われたアメリカは発展途上国の温情によって大部分が庇護されることになるのだ。
自国の中枢を捨てる過程において、(この映画においてほとんど存在感のない)大統領は事故死して、副大統領がやがて大統領としてメディアに登場する。「われわれはもう地球資源を無限だと思うことは許されない…発展途上国の温情に助けられたのです…」*1
状況が切迫するまでは、古気象学者の推論になど耳を傾けなかった副大統領が、危機の最中の議論で見せる表情の変化。あるいは『スウィート ヒアアフター』の雪のイメージが反復されるイアン・ホルムの受容的な表情。デニス・クエイドジェイク・ギレンホール父子が互いを信頼し、やがて奇跡の再会を果たしたときに見せる慎ましやかな抱擁と周囲の者たちの穏やかな見守り。さらに『ミスティック・リバー』でショーン・ペンの娘を演じたエミー・ロッサムが未来への希望を失った時、ジェイク・ギレンホールに愛を告白され、横のつながりに目覚め、燃やされる本を背景にささやかなくちづけを交わすこと。通常時は犬連れのために図書館に入ることすら許されなかった黒人ホームレスが、有事となり他の仲間たちと共に日常の知恵を発揮し最後まで生き残るということ。小児麻痺で病室から動くことができない少年が、暗い病室で見捨てられることなく救われること。
それらがすべてこの映画の慎ましさによって見守られ、人類が自らの傲慢さゆえに被った惨事として、身近な失点に目を向けようと目覚めるすがすがしさと共に映画は緩やかに幕を閉じるのである。そこに現実のアメリカの姿はなかった…。

*1:正確な台詞ではないけど、だいたい同主旨のことを演説する。