スペクタクルの2つの指向

tido2004-09-07

一般的には長い大学の夏休みも9月に入ると焦燥感と共にあっという間に過ぎ去ってゆくように感じる。実際、この1〜2週間というもの、何かに集中するということがほとんどできず、バイトやら単純作業やらに時間を食いつぶしている。そんな中、せめて映画だけは観ておこうと6日、新文芸座江戸川乱歩映画祭に行ってみた。

  • 怪人二十面相・三部作(弓削進)
  • 少年探偵団・第一部 妖怪博士(小林恒夫)

前者は約40分を一話とする「二十面相モノ」の三部作である。映像のテンポは良いものの、物語の稚拙さには退屈してしまう。おそらく当時の子供だったなら毎週テレビ(たぶんテレビのシリーズではないかと勝手に推測)にかじりついて観ていたのだろう。しかし、二十面相と明智小五郎が最後に対決するのはハリウッド映画の「酒場の格闘」のごとき殴り合いだというのには笑えた。あれだけトリックの掛け合いを続けながら、結局はそんなオチか…こういった外し方(当時は本気だったのかもしれない)は随所に見られる。例えば、囚われの身となった明智の女助手を助けるくだりにおける淡泊すぎる奪還シーン。この退屈さ自体は逆にちょっとした楽しみともなりうる。警部役の須賀不二男が若く凛々しかったのが印象的だった。
この映画(?)を観ていて思い出したのが、鈴木清順(この時はまだ「鈴木清太郎」)の『裸女と拳銃』である。1957年の映画だが、この映画にも「外し」が随所にある。しかし、ある種の徹底が逆に面白かった。もう一度観てみたい映画だ。似たような面白さは1961年の『東京騎士隊』にも見られる。初期の清順作品をもっと観られないものか…。チャン・ツィイーを起用した次の映画が公開される時がチャンスかもしれない。
後者も同じく「二十面相モノ」。こちらの方が役者の質が良いと思った。まあそれは狙いの違いかもしれないし、映画会社の指向の違いかもしれない。もっとも、退屈な映画にはかわりなかった。化けた老婆の迫力は良かったが、それ以外はあまり見所がないように感じた。それにこういった映画の子供たちの憎たらしさは今も昔も変わらないのか、テレビドラマでよく見るような下手くそな演出がほどこされていて見るに耐えない。『誰も知らない』みたいな映画を観た後にはちょっときつい。
続いて今日はキューブリックの『スパルタカス』をDVDで。これぞハリウッド的なスペクタクルという1960年の3時間を超える大作。キューブリック映画ではぼくもこれまで見逃していた作品だった。さすがに、あれほどの大資本を投じていてもきちんとコントロールされていて、まったく退屈させられない。もともと、ぼくは中学生か高校生辺りに観たメル・ギブソンの『ブレイブハート』に感動して、LDを買って20回ほど繰り返し観た人間である。そのため、『ブレイブハート』こそ頂点とみなしてしまい、それ以後もそれ以前も、エピック映画にはほとんど興味を持ってこなかったという罪がある。一応、それ以後の映画はチェックはしていたけれど、もっと以前の映画には興味をもとうと思う。しかし、キリストだとか世界史的な英雄だとか、ぼく自身とは疎遠な物語が多いゆえに、また尺の長さゆえに、なかなか食指が伸びないのも確かである。大映勝新による『釈迦』や『秦・始皇帝』は違う意味で興味深かった。