簡素なる豊穣さ
久しぶりに衝撃を覚えるほどの怪作を目にした。アンドレイ・ズビャギンツェフ監督による『父、帰る』である。
運が良ければおよそ数ヶ月ほど前にこの作品のビデオを観られたかもしれなかった。以前この日記でも触れたが、ぼくが講義を受けている大学教授がこの監督を呼んでくれるという話になって、ぼくもタルコフスキーやソクーロフを観直して必死に質問を練っていたのだけど、結局監督は忙しさのあまりやって来なかった。おかげで満を持して銀座シャンテ・シネのスクリーンで観ることとなった。日経新聞夕刊で中条省平が取りあげていたりいろいろな(文化的)メディアでの紹介が目に付いたので、もしかしたら立ち見かと懸念していたが、13時過ぎの回、なんとか座ることができた。偶然、ロビーでかつてぼくが通っていた映画学校のTA(ティーチャー・アシスタント)の2人と遭遇。近況などを雑談した。
それで…この『父、帰る』についてだ。この映画のイメージ!イメージそのものを体験することの歓びとでも言おうか。神話やら政治やら何かの暗喩だとする見方にもそれなりの正当性はあろうが、やはりこの映画を特徴付けるのは表層の水準での強度である他はない。確かにタルコフスキーやソクーロフ、あるいはミハルコフなどの、いかにもロシア的な映像である。唐突な雨、あまりにも静かな湖、そしてワインに注がれる飲み水…連鎖する水のイメージはタルコフスキーの映像を思わせる。しかし、タルコフスキーやソクーロフほどの静謐さ、観念的な徹底は見られない。かといって、ミハルコフのような人間の「底」の描写もない。自然の捉え方は前者のようではあるが、一貫して人=風景の静謐さに留まり続けるようでいて、映画はわずかな動きを見逃さない。兄弟の父に対する態度、表情。歩くこと。走ること。食べること。車、バス、ボートなどの乗り物。冒頭でしか姿を現さないのに、なぜか最後まで強く印象を残す母と祖母の表情。
この映画には、フィルムの持続そのものという快楽と映画の中の出来事がすべて初めての出来事として生成しつつあるかのような生々しさとが息づいている。なぜロシアの子供はあんなにも素晴らしいのだろう。常に地平線が見渡せるロシアの風景は素晴らしいのだろう。徹底して簡素化されたこの映画は、まるで骨組みだけのようでありながら、逆説的に豊穣なのである。それは映画を観れば一目瞭然。ロッセリーニの映画を思い起こすかのような風情である。監督自身述べるとおりアントニオーニの映画を挙げてみてもいい。どのような観点においてなのかは分からないが、北野武やポール・トーマス・アンダーソンなどの影響を受けているというのも肯ける。やはりロシア的伝統の呪縛よりもある種の同時代性、圧倒的な瑞々しい力強さを感じずにはいられない。次作はさてどうなるのだろうか。