映画館は1ヶ月ぶり

三部構成となる映画は、女子高生ヨジン(クァク・チミン)と親友チェヨンハン・ヨルム)との関係にせよ、ヨジンとその父ヨンギ(イ・オル)との関係にせよ、ひたすら優しく、それゆえにひたすら危うく、そして脆く、この映画を観ているあいだはずっと世界から隔てられてるような感覚に浸されていた。これが『世界の中心で…』(映画の方)ならば、作品の善し悪しは措くとしても、主人公を取り囲む存在が見えていて、例えば、それが二人の間を阻害するような存在(家族)だったとしても、それが見えているということは、なんとなく社会というか世間というか…そのようなものを意識させるので、比較するのもおかしいが『サマリア』の呼び起こす感覚とはほど遠い。
それに、何かと過剰な表現が多い韓国映画において、この『サマリア』の中で描かれる風景=人物は、チョン・ジェウン監督『子猫をお願い』のように抑制されたトーンでリアルに描かれている。娘と父が亡き母の墓参りをする場面。良い景色だな、心が和むと父は言い、カットはロングショットで風景を映しだすけれど、それは確かに良い景色ではあるけれど、空が曇っているせいか、薄暗く閑散とした田舎の平凡な風景でしかない。実際、『サマリア』においても、登場人物は血や泥にまみれることが多く、そういった場面だけを見れば、韓国映画的な過剰さを感じないでもない。が、全体のトーンとしてはそれを意識させないほど静かである。静かといっても決して退屈なわけではない。
ぼくはパク・チャヌク監督『オールド・ボーイ』をとても気に入っていたけど、漫画原作というのもあってやはり日常的でない空想的な話という点がいまひとつなところだった。映画なんてそんなものといえばそうなのだが、この点は重要で、限りなく静かでリアリスティックな映画でも狂気を帯びるような映画は存在し、そういった映画から受ける衝撃度に比べれば、過剰な映画の衝撃度は、それがよくできたものであっても、それほどのものではない。つまり、映画の終わりとともに「覚め」がやって来る。しかし、前者はどうだろう。日常生活を営んでいても、ふとした隙にその狂気がよみがえり、安定した意識を脅かそうとするのである。『サマリア』はそういう映画である。
予告編を数カ月前に観た時は、物語の後半がロードムービー調になるありがちな展開かと思っていた。それを否定するわけではなく、ひとつのパターンではあるし、どちらかといえばそれが楽しみでもあった。しかし、『サマリア』は意外な形でそれを裏切った。実際、後半というか三部構成の最終章「ソナタ」ではロードムービー調になる。しかし、あっという間に旅は終る。父娘の墓参りへの旅。これはたかが数カットで目的地に到達し、挙句に、墓参りから帰る山では石の間にタイヤがはさまりしばし停滞、山村で空き家を借りて夜を明かす。この連続する場面で父娘はほとんど会話せず、父を見つめる娘、娘を見つめる父が反復される。とても秀逸な場面だ。それまでの二部を観てきた者からすれば、その交わらない視線に、どれほどの距離とその距離をも超える情が存在していることがうかがえるからだ。そして、このロードムービーと呼べるほどには至らない旅が二人を癒すものではないということも、そこからじわじわと浸透してくる。
ラストはここに書かない。予兆はあった。山小屋で目覚める父がそばに寝ていたはずの娘が外で泣いているのを眼にする場面。車の中で寝入ってしまった娘が目覚め、隣の父が不在だということに気づく場面。いや、映画をさかのぼれば、常に隣にいたはずの分身とも考えられる親友が不在となること。そういった数々の予兆に感づいてはいながらも、あのラストには…。衝撃の結末といった類いのものではないにもかかわらず、あの結末ほど強く印象を残すものはないだろう。