最大級の刺激

この小説を読み進めていく内に、自分の中で何かが動いていくのを感じ、そういえば、小説を読んでいる時に感じるのはこういった感覚だったなぁ……と思い出していた。何が動いたのか、はっきりとは言えなくても、小説を読む前と読んだ後で何かが変わっているのは自覚できる。つい4〜5ヶ月ほど前に卒論の際、いろいろな本を読んで感じ入ったことは多くあったけど、卒論という枠組みと時間的制約の中で、そういった体験はすぐに後景へと退いていった。就職のことなど頭になかったのに、あっという間に半就職の立場に踏み入ってしまったことも災いして、新しい環境への適応ばかりが要求され、実際に適応し始めると、いつの間にか怠惰な日々を送っていて、自分の中の何かが動かされるという名状しがたい体験と切り離されつつあった。しかし、まるで高校生の時に村上龍の小説を読んだかのような高揚感がここに訪れる、とは思ってもみなかった。このような小説を書けるのは紛れもなく村上龍だけである。抽象的な前置きはここまでにしておこう。
北朝鮮の精鋭部隊による福岡占領という事態にリアリティを与えるために、この小説には膨大かつ詳細なデータを参照しつつ、圧倒的な登場人物と固有名が含まれているにせよ、もっと重要なのは含まれる視点の多さではないか。語りは三人称であるが、冒頭にホームレス、ノブエの視点が導入されることで、これから展開されるだろう物語の外部に立たされたような感じがある一方で、それぞれの章で視点となる人物がふと目に留めた対象をきっかけに、あふれるように過去の記憶と内面描写を展開する村上龍の手法は、物語の内部に読者を引きこむ。圧倒的なエネルギーを感じさせる描写の強さとスリリングな物語の展開に呑まれそうになる。けれど、章が替わると視点も替わり、また時制も少し戻って部分的に前の章と時間が重なっている、ということによって、読み手は物語展開から少し引き剥がされる。この絶妙なリズムによって、この長い小説を長いと感じさせないし、この作家の持論である「あたりまえのことの認識」を愚直な形でなくて、それぞれの視点の間に浮かび上がらせるような形で書き出すことに成功しているのだと思う。
そして、そのような形式的あり方は物語に大きくかかわっている。外部、あるいは今までと違った環境、思ってもみなかった新しい事態……のようなことが起きて初めて「あたりまえのことの認識」に到達できるということ。このような気づきが、この小説の視点を担う各人物にもたらされる。そして、その気づきを受け入れる様が描写されている。「あたりまえのことの認識」を拒み、無意識に隠蔽しようとする日本政府やメディアはこの小説の脇役であり、「あたりまえのこと」をこれまで直面しなかった事態に際して認識していく福岡の人々やイシハラのところに集まっていた者たち、そしてコリョたちは、たとえ恐怖や不安があってもそれを見つめることができ、見つめた上で自分たちのやるべきことをやっていて、脇役の非常識がよりいっそう際立つ形となっている。
印象としては、これまでの村上龍の小説がすべて凝縮されているようで、本当に密度の高い内容になっているし、このような題材を今扱うということの意味を考慮すると、村上龍が小説の役割をどのように考えているのかがはっきりうかがえるだろう。ネット上で指摘されているのを見たけど、この小説は『13歳のハローワーク』が意図するものに近い部分が少なからずあるし、村上龍のあとがきにあるように、『昭和歌謡大全集』の続編でもあり、北朝鮮の特殊部隊の描写は『五分後の世界』であり、『愛と幻想のファシズム』や『希望の国エクソダス』をさらに上回る規模の長編である。今の文学がどうあるべきか、という問いに対して、それが正しいか誤りかは別として、村上龍のスタンスは明確である。阿部和重の『グラン・フィナーレ』の芥川賞選評で村上龍が述べていた「フェアでない」(という言葉だったかどうか忘れたけど、とにかくそんな感じの言葉)部分について、少なくとも自らの作品をもって答えているということ。このことをとっても分かるが、村上龍の言っていることはシンプルだし、一貫している。この無駄に複雑な社会では、そういったシンプルさこそ力強く、求められていることでもあるのだろう。
あたりまえのことを認識し、やるべきことをやる。この小説は、その原点に思考を立ち返らせてくれる。まさに「原始思考法」。また、村上龍を読み返さなくては……。